第四章 魔香の伝説 2

「話を元に戻すけど、儀式なんかに使われる香料には、幻覚作用や酩酊成分のある麻薬が使われることが多かったの。理由は分かるわよね?」

 いちいち確認のための質問を挟むのが、佳苗の説明スタイルのようだ。

 一方的にまくしたてられるよりは良いし、こちらも自分の考えを声に出してまとめることができるので、郁にとっては好都合だった。

「神秘体験、ですね」

「正解。いいわね、頭の良い人たちって好きよ」

 語尾にハートマークでも付きそうな艶っぽい声で佳苗は微笑んだ。とにかく、この黒い女はトークに長けているようだ。

 話しやすいと思いつつも、郁は警戒レベルをさらに上げた。

 流れるように注ぎ込まれる彼女の語りは、うっかりするとウソや矛盾があっても気付かないかもしれない。

 表面上は真面目な聞き手を装いつつ、郁は佳苗の表情や仕草にも注意を払うようにした。

 一方、仄香はというと、話が始まる前からケンカ腰だったので、郁は放っておいた。むしろ、理詰めで話をしてくる様子の黒い女に対し、適度な揺さぶりになるだろう。

「麻薬によってトランス状態に陥った人は、様々な幻覚や幻聴に見舞われるわ……。不安な心理状態でいれば悪魔が見えたでしょうし、心穏やかであれば神や天使を見たんでしょうね。おそらくこれが、宗教的な儀式における神秘体験の正体よ」

「なかなか興味深いですね」

 郁は本心からそう言った。

「でもね、私はこれに、もう一つの仮説を加えたいの」

「仮説?」

「……フェロモン」

 その単語に郁は驚いた。先日、FFDCの曽田もフェロモンのことを言っていたのだ。香りに携わる人間にとって、やはりフェロモンは気になる要素なのだろうか?

「フェロモンですか……。攻撃とか警報とか、フェロモンにはいくつか種類がありますけど、センパイは儀式に使われていたのは、どんなフェロモンだと考えているんですか?」

「儀式にフェロモンと言ったら、アレしかないでしょう?」

「アレ?」

 含むような艶っぽい言い方で佳苗は答えをボヤかしたのだが、どうやら仄香には見当がつかなかったようだ。

 ヤレヤレといった風にため息をついて黒い女は答えた。

「性フェロモンよ」

「セイ……? せせ性……フェロモン、ですか……!」

 余裕のあるオトナの視線で見つめられて、仄香は赤くなって俯いてしまった。

 どうやら、セクシャルな面に関しては、仄香はまだまだ子供のようである。他人の色恋に興味はあっても、それは小学生レベルの感覚らしい。クラスメイトの瑞希のために惚れ薬にも似た香水を創っていたが、一体どんな顔をして渡したのだろうか。大昔のABCではないが、高校生ともなれば色恋の先にあるのは身体で触れ合う関係である。だが、仄香のメンタルはどうもそこまで至っていないようだ。

 そんなことを考えつつ、郁は思わず安堵のため息を漏らした。そして次の瞬間、自分がそんなため息を漏らしたことが恥ずかしくなる。

 ──考えすぎなのよ!

 先日、教室で瑞希に言われたことが郁の脳裏に甦った。

「まあ、性フェロモンっていうと動物的で生々しいけど、実際は誘引フェロモンのことね」

 明らかに面白がっている佳苗であったが、仄香は言い返すこともできずに黒い姿をした上級生を睨んでいる。

「怪しげな新興宗教が麻薬の常習性を使って信者を増やしていた場合もあったんでしょうけれど、度が過ぎると教祖自身が壊れてしまうから、あまり多用はしなかったでしょうね。多用したところは教祖もろとも、ボン! ってわけ」

 掌を上に向けて弾ける動作を見せた佳苗を見ながら、郁は新興宗教の教祖が信者を道連れに大規模心中事件や虐殺事件を起こしたというニュースをいくつか思い出した。そういったニュースは、国内外を問わず度々起こっては世間を騒がせる。その内のいくつが麻薬がらみのものであったのだろうか。もしかしたら、ほとんどがそうなのかもしれない。

「でも、麻薬を使っていないにもかかわらず、異様な速さで信者を増やした宗教団体もあるわ」

「つまり、麻薬に代わるものとして誘引フェロモンが使われていたと?」

「と、私は考えているの。おそらく、使っている方は、それがフェロモンだなんて気付かなかったんでしょうけれど」

「でも、フェロモン……、特に誘引フェロモンって、基本的に同族にしか効かないんじゃないんですか? アリはアリに、ハチはハチにって具合に」

 誘引フェロモンは、繁殖期や発情期に入った生物が異性を引き付けるために分泌するものである。孔雀の羽や猿のお尻のように、視覚へ訴えかける生物もいるが、やはり、言語を持たない生物にとって、コミュニケーション手段としてのフェロモンは強い。特に、虫のような群体で社会性を維持している生物にとっては、プログラミング言語の命令のように強力だ。

 では、ヒトフェロモンはどうであろうか。

「そうね。人間にとっては、人間の分泌するフェロモンしか効かないわ。だから、ヒトフェロモンを強力に分泌させる方法が必要なの」

「それが、『十戒』だと?」

「『十戒』に限らず、『魔香』と呼ばれる香水すべてね。『魔香』には、それを身に付けた者が発するフェロモンを、何倍にも増幅する力があるの。普通の香水にはあり得ない効果がある。それが『魔香』と呼ばれる理由の一つよ」

 ──フェロモンか……。

 郁は曽田に話を聞いてから、フェロモンに関することを調べていた。だが、動物や植物によって分泌されるフェロモンの研究はそれなりに発展しているものの、ヒトフェロモンに関してはまだまだ未解明の事柄が多い。というより、分かっていないことの方が多いのだ。ちょっと前まで、人間に効くフェロモンなど無いと思われていたのである。

 その中で郁が気になったのが、フェロモンを受容する器官である鋤鼻器じょびきが脳と直接繋がっている、という点である。

 つまり、フェロモンは、人の意識に直接働きかけることができるということなのだ。それはまさに、人の心を操るということに他ならない。

「でも、そんなことが本当に可能なんですか?」

「可能よ。ね、仄香さん?」

「……! そうですね……」

 いきなり振られた仄香は、嫌々ながらも佳苗の問いを肯定した。

 そう、仄香は最初に佳苗と会ったときに、『十戒』の本当の効果を、身をもって体験したのだ。

「センパイ、質問です」

「なぁに、郁?」

 隣の仄香からチリチリする気配を感じたが、郁は無視した。

「なぜ、『十戒』の逆なんです? 仄香が『十戒』の本当の効果を体験したのは事実のようですけど、その効果の意味が分かりません。いえ、相手がウソを無条件に信じてしまうっていうのは分かったんですが、それならそれで単品の香水でも良かったんじゃないですか? それが、なんでワザワザ五個……、いや全部で十個の香水のシリーズになっているんです?」

「いい質問ね。それが、『十戒』と呼ばれる『魔香』の本当の力」

 これからが本題と言ったところで、佳苗はティーカップに口をつけた。

「『モーゼの十戒』は神と人との契約を示し、徳を積むことを教えているわ。でも、『魔香』の『十戒』は逆。悪徳を奨めている」

「……つまり、ケースに『十戒』の条文が上下逆向きに書かれているのは、そういうことなんですか?」

 ちょっとカードを切りすぎたかな、と郁は思ったが、どうやら目の前の黒い上級生は話し相手にも相応の知性を求めているようだ。打てば響くような会話の応酬は、佳苗の気分を良くさせて、情報を引き出しやすくさせるだろう。

「……ねえ、郁?」

「はい?」

「あなた、それを自分で考えたの? それとも、他に『十戒』のことを知っている人がいるの?」

 今現在、『十戒』のことを知っているのは、この場にいる三人の他には、FFDCの曽田だけである。だが、この女に曽田のことを知られてはならないと、郁は思う。単に迷惑をかけられないというだけではなく、目の前の佳苗という黒い女がどういう存在か、今一つハッキリしないためだ。隣の仄香は敵対心を剥き出しにしているが、郁はそれほどの敵意は感じていない。何より、彼女が『十戒』を求める理由をまだ聞いていないのだ。調香師としての興味なのか、単なる知的好奇心なのか、それとも……。

「ええ、自分で考えたんですよ」

「そうそう。郁はとっても博学で、こういう謎解きは凄く得意なんですよ。先輩は知らないでしょうけど」

 ドヤ感MAXな表情で、仄香は郁に代わって佳苗に答えた。仄香は仄香で郁と同じように、曽田の件は隠した方が良いと思ったようだ。

「そう……。それじゃ、これから先のことは他の人には秘密よ。と、言っても、他人に話しても信じてもらえないでしょうけどね」

 いよいよ本題か、と、郁は心持ち身体を乗り出した。

「学校でも言ったけど、『十戒』は本物の『魔香』、つまり魔術で造られた香水よ。『魔香』っていうのは、普通の調合では有り得ない、超常的な効果が付与されている。そして、仄香さんの持っていた、『モーゼの十戒』をモチーフにした『十戒』の六から十は、悪徳を重ねることを奨めていて、同時に使用者がそれを行いやすくなる魔術がかけられている」

「ウソをついたり、盗んだり、ですか」

「そう。そして半分をクリアすると、残り半分の『十戒』も使えるようになるの」

「残り? 一から五ですか? でも、『モーゼの十戒』の前半は、神様と人との契約が書かれているんですよね」

「そうよ」

「でも、その逆って……。まさか!」

「分かったみたいね。神の逆。神の敵対者。つまり、あの『十戒』は、悪魔との契約を示しているの」

「悪魔と契約する為の道具……、それって……」

「それで言いよどむのは正解よ。普通は信じられないものね。つまり、『十戒』は悪魔召喚のアイテムなのよ」

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