第四章 魔香の伝説 1
冬が好き
冬は空気が張り詰めるから好き
冴える山の香
雪降る里に広がる清冽な香り
*
「遅いわね……」
試験休みの初日、夏の日差しを浴びながら、駅前広場のベンチで仄香は呟いた。隣では、郁が清涼飲料水のペットボトルに口をつけている。
仄香はオレンジのサマーパーカーに白のプリントTシャツ、薄いライムグリーンのフレアスカートを履いている。パステル調のカラーが爽やかな印象だ。衣装に倣うように、シトラスをベースにした柑橘系の香りを漂わせていた。爽やかなグリーン・ノートに加え、熟したオレンジのようにほんのりと甘い香りがする。
郁は白のコットンシャツにデニムのハーフパンツという、こちらも涼やかな格好である。頭には日よけに帽子を被っていた。
清涼飲料水を飲み干した郁は、ベンチの近くにあるゴミ箱にペットボトルを放り投げた。回転しながら放物線を描いて飛んだペットボトルは、狙い過たずゴミ箱に吸い込まれた……とはいかず、わずかに逸れて縁に当たって落ちた。
「ちぇっ……」
正体不明の自信に突き動かされて慣れないことをした郁であったが、裏付けの無い自信には当然の結果しか返ってこなかった。汗ばむ身体を動かして、渋々といった様子でペットボトルをゴミ箱に放り込む。
「ホントに遅いな……。まさか、ドタキャンされたんじゃ……」
時刻は待ち合わせの十時より十分過ぎ。しかし、『十戒』のことを知る黒い女は現れない。
と、視界の端に黒い塊が見えた。反射的に郁はそちらの方を見る。
「ごめんなさい、待たせちゃったわね」
仄香たちは彼女に黒いイメージを抱いているが、どうやら彼女自身も黒が自分のパーソナルカラーと思っているようである。駅の改札口の方から現れた佳苗は、深夜の自宅前で会ったときや学校で会ったときと同様に黒かった。
思わず仄香は、黒い上級生を上から下までまじまじと見てしまう。
市松人形のように整った美貌を持った女の先輩は、黒いサテンのワンピースに紫紺のリボンを腰に巻き、フリルのついた黒い日傘を差していた。さすがに袖は夏向けに大胆にカットされていて、ほぼノースリーブである。
黒は吸収色であり、熱や光を吸収して熱くなってしまうので、夏場に向いた色ではない。だが、夏の暑い日差しの下、佳苗は黒い姿で涼しい顔をしていた。額には汗一つ浮かんでいない。
「遅いですよ、先輩!」
「ごめんなさいね。お詫びに冷たいものをご馳走するわ」
全く悪びれる様子の無い佳苗に、仄香は怒りを隠そうともしなかった。
だが、郁は佳苗に対する警戒を少し強めた。巌流島の故事ではないが、相手をイラつかせてペースを握るのは交渉の初歩である。こちらは知識を貰う立場なので、下手に出ざるを得ないのは仕方ないと思っているが、その上で相手が自分の優位を確保しようとしているのなら、油断のならない話し相手だ。
──しんどいことになりそうだな……。
したたかそうな先輩を相手に、味方はエキセントリックな女の子。
単に話を聞くだけではない、中々にシビアな情報交換になりそうで、郁は二人に見えないように溜息をついた。
佳苗の案内で、三人は駅前広場から少し離れた商業ビルの二階にある喫茶店に入った。
駅前広場に面した大手チェーンのコーヒー店もあったのだが、他人にはあまり聞かれたくないということで、目立たない静かなお店を佳苗がチョイスしたのだ。
個人経営らしい店内には、OL風の女性客が一人だけだった。レジ脇のカウンター席で、アイスコーヒーを飲みながらハードカバーの本を読んでいる。他には、カウンター内でグラスを磨いているタキシード姿のバーテンダーくらいである。
そこは、駅前の喧騒とは切り離された、落ち着いた雰囲気の空間であった。
仄香はクリームソーダ、郁はアイスコーヒー、佳苗はローズティーをそれぞれ注文した。
「さて、『十戒』のことを説明する前に、香料の歴史について、ちょっとおさらいしましょうか。仄香さんには退屈でしょうけど、郁クンには話の前提として知っておいてもらいたいの」
そのまま話を続けるのかと思ったら、佳苗は郁のことをじっと見つめたまま止まった。
不審に思った仄香が佳苗に声をかける。
「先輩?」
「……イククンって、ちょっと呼びにくいわね。郁って呼んでもいいかしら? 私のことは佳苗って呼んで構わないから」
「ちょ……、いきなり呼び捨てなんて、ちょっと馴れ馴れしくないですか、先輩!」
「あら、なぜ、あなたが怒るの? 私は郁に聞いてるのよ?」
「もう呼び捨てっ!」
郁は仄香の前に手を上げて制した。
「別に構わないよ。何て呼ばれようとも関係ない。話を進めてください、馥山センパイ」
「……可愛いわね、あなたたち」
仄香は思った。
この女は敵だ。
と、いきなり場の雰囲気が険悪になりかけたところで、タイミング良く飲み物が運ばれてきた。
図ったような間の良さに、郁はかるく安堵する。
「冗談はさておいて……、香水が一般的になるより遥か昔。香料は神事や儀式に使われてきたわ。香によって神を呼び出したり、魔を祓ったり。身近なところではお線香があるわね。仏壇や墓前に供えるものだけれど、最もシンプルな形での香の使い方と言えるわ」
佳苗はティーカップを取り、軽く香りを楽しんでからローズティーを口に含んだ。
「なぜ、儀式には香が、特に植物性のモノが使われていた思う? はい、仄香さん」
佳苗は教師よろしく、小ぶりなティースプーンを仄香に向けた。
黒い女の態度が気に入らない仄香は、素っ気ない態度で無視しようかとも思ったが、知らないと思われるのもしゃくだった。渋々と言った表情で、佳苗の問いに答える。
「……一つは動物性の香料に比べて採取が簡単だってこと。
「正解」
仄香は佳苗の物言いにいちいちカチンと来ていたが、表面上は無視していた。とにかく、この黒い女から自分たちの知らない『十戒』の話を聞きださなくてはならない。
「知っていると思うけど、麻薬を摂取する方法としては、静脈注射や鼻から粉末の吸引が一般的ね」
いやいや、知りませんって……、と突っ込みを入れたくなったが、無駄に知識の多い郁は、そのあたりのことは知っていたので黙っていた。
「それ以外に、アロマポットを使ったり、もっと単純にアルミホイルの上で熱して空気中に揮発させたりする方法があるけど、これは夜のお楽しみなんかに使われる方法ね。……二人はやったことがあるかしら?」
「いやいやいや! あるわけないですよ、センパイ! ボクら普通の高校生ですよ?!」
相手を掌でもてあそぶような、クスクスとしか言いようのない笑いを佳苗は漏らした。
「あらそう? 仄香さんなら、そういう香りの使い方もよく知っているのだと思ったけれど。それじゃあ、夜には使わずにしてるのね?」
「いやいやいやいや! だから、ボクらそういう関係じゃないんですってば!」
思わず、郁はギョッとして仄香の顔を見た。
だが、予想外に仄香の表情はそのままだった。そのまますぎて、キョトンとした顔だ。
──まさか、仄香のヤツ、今の話の意味が分からなかったのか?
そんなはずはない。
クラスメイトの香山瑞希のために香水を作ったりしてるのだから、色恋に鈍感ということは無いはずだ。それに郁は、仄香の異性の好みを何度も聞いたことがある。別に、直接言われたわけではない。学校では何かと一緒にいることが多い為か、仄香がクラスの女子連中とガールズトークに花を咲かせていたのが聞こえてしまったことがあるのだ。
しかし、郁は以前に読んだ偉人のエピソードを思い出した。
いわく、天才と呼ばれる人間は、自分が興味のある研究に没頭するあまり、普通の感覚が欠落しているのだと。四十歳を過ぎて女性経験が全く無く、しかし素晴らしい業績を残したという偉人もいる。普通の人間が当たり前に使っている生活のリソースを捨て、人生の全てを研究や発明につぎ込んだ結果である。彼ら偉人は色恋よりも、魅力的な『何か』に憑りつかれてしまったのだ。
そして、彼らの生み出した理論や技術は、当時の人間から見れば、それはまさに魔法としか見えないようなものであったのだろう。
──もしかして、四十を過ぎた童貞が魔法を使えるようになるって話、ここから来てるのかな?
何か、この世の真実の一端に触れたような気がした郁は、今の考えを忘れないようにメモを残した。仄香とはまた違った意味で、郁も平凡ではない。知識に貪欲なのだ。
「いったい、何の話よ?」
さすがに少しイラッとした声で仄香は聞いてきた。
「後で説明するよ」
と言って郁は逃げたが、説明する気はさらさら無かった。なんとか逃げる方法を今から考え始める。
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