第三章 盗人の残り香 7

「悪徳を行う為の心理的禁忌を希薄にし、相手の心を操る。まさに魔法だね。曽田さんが封印しろって言ったのは正しいよ。薫子さんがあんな分かりにくいところに『十戒』を隠したのも、危険な香水だと知っていたからかもしれない」

「だったら、捨てちゃえば良かったのに……」

「……仄香はあれを取り戻したら、どうする?」

「もちろん、正体を暴いて見せるわ」

「くくっ、そうだよね。仄香はそうするだろうね。薫子さんも、きっと同じだったんでしょ?」

「あう……」

「それにしても、完璧なカンニングじゃないかな。テスト前に香りを身に着けておくだけで、答えがどんどん分かるんだから。頭に答えが浮かぶのか、周囲の人間が勝手に答えを見せてくるのか、そのへんは分からないけど……」

「郁はあれが、“本物の”魔法の道具だと思うの? 錬金術の時代に造られた、本物のマジックアイテム……」

「さーてね……。確かに『十戒』って香水は普通じゃない。何か、魔法じみた効果があるのは確かだ。でもって、科学的な原理や理屈が分からなかったら、それは魔法と同じだよ。『十分に進んだ科学は魔法に見える』ってヤツ。でも、正体がハッキリと分からないんなら、本物って可能性も排除しない方がいいと思う。実際、錬金術ってのは、今では胡散臭いエセ科学扱いされてるけど、あれが現在の科学の発展に貢献したのも事実なんだ。『十戒』も、そういう効果のある危険な香水として扱っていれば、間違いはないと思う」

「不思議な効果は確かにある。そして、もしかしたら本物かも……って、考えるのね。でも、そうすると、残りはどうなの?」

「残り?」

「『殺すな』とか、その……、かか……、『姦淫するな』……とか、物騒なのが残ってるし、それに、前半は神様の話ばっかりなんでしょ?」

「そうだね。確かに、『戒めの六』から『十』は人としての正しい生き方を示してて、『戒めの一』から『四』は神様との相対し方が示されてる。『五』はちょっと特殊で、そこだけは『父母を敬え』になってるね」

 ここで郁は立ち止まった。それぞれの家へ向かう分かれ道となる交差点である。話の区切りをつけるかのように、郁は大きく深呼吸した。

「まあ、今の話は、これまで起こってしまったことに対して、なんとか説明をつけようとしているだけで、あくまで仮定の話だよ。あれが本物かそうじゃないか、まだ判断するのには材料が少ない。詳しいことは、馥山先輩に話を聞いてから考えよう」

「そうね……」


 郁と別れ、自宅に戻った仄香は、鞄を置いて部屋着に着替えると、いつものように離れの調香工房へ向かった。強い日差しは西に傾いてきたものの、夏の光が容赦無く照り付けている。色濃い影を落としながら中庭を通り、錦鯉の泳ぐ池を横目に見つつ、仄香は工房の扉の前に立つ。そして鍵を開ける前にドアノブを握り、しっかりと施錠されていることを確認した。軽く安堵の息を漏らした仄香は、ポケットからキーケースを取り出して工房の鍵を開け、後ろ手に扉をしっかりと閉じた。

 簡易キッチンやトイレなどのある前室を抜け、仄香は奥の調香工房へと進む。窓の無い、密閉された空間。仄かな香りに満たされたいつも通りの工房。変わらない工房の風景を見つめながら、仄香は大きく息を吐き出した。

 帰宅後、自分の部屋から工房へ向かうまでの行動は、仄香にとっていつもと変わらない慣れ親しんだルーチンワークである。考え事をしながらでも半ば無意識に身体が動くので、工房の真ん中にある安楽椅子で我に返ったことも一再ならずある。

 だが、『十戒』が盗まれて以降、仄香は工房に入る度に、これまで感じたことの無い緊張感を味わっていた。

「絶対に見つけるんだから……」

 理不尽な緊張感を覚えることになった仄香は、改めて犯人に対する怒りが込み上げてきた。だが、怒りの興奮状態は冷静な思考の妨げになる。仄香は踵を返してキッチンに入り、お茶の用意を始めた。ティーポットとカップにお湯を注いで温めておいてから、食器棚の開き戸を開ける。ずらりと並んだ容器の中から、仄香はジャスミンの茶葉を取り出した。

 ジャスミン茶の香りは普通の紅茶などとは違い、茉莉花ジャスミンの花の香りを緑茶や烏龍茶などのベースとなる茶葉に吸着させたものである。花の香りなので、『ジャスミンの茶葉』というのは、実はあまり正確な呼び方ではない。正確には、花茶と呼ばれるものである。

 ジャスミン茶には肌美容やダイエット、口臭改善などの効果があるが、もっともよく知られているのはやはりリラックス効果であろう。口に含んだ瞬間に広がるフローラル系の甘い風味。それでいて、優しいだけではなく鼻孔の奥を貫くような一本筋の通った香り。鎮静と覚醒が同時に得られるので、落ち着いた心でスッキリとした冷静な思考力がもたらされるのだ。

 慣れた手付きでティーカップにジャスミン茶を注いだ仄香は、お盆にティーカップとお茶請けのクッキーを載せて安楽椅子の脇のサイドテーブルに置いた。そして深々とした安楽椅子に腰かける。香りを楽しみながらジャスミン茶を一口すすった仄香は、背もたれをいっぱいに倒して天井を見上げた。

「『十戒』かぁ……。おばあさまは『魔法使い』なんて呼ばれてたけど、本物のオカルトなんて、専門外よねぇ……」

 調香は純粋な科学である。匂いのメカニズムや天然香料の成分分析など、未だ分かっていない事柄も多いが、それらはいずれ科学的に解明されるであろう。そういった意味では、薫子は科学の最先端に触れていたとも言える。その薫子の遺した謎の香水は、科学とは随分とかけ離れた秘密を持っているようだ。

「『十戒』……、十個の戒め……、戒律。ざっと見ただけなら、当たり前のコトばっかりなのよね……」

 ティーカップを片手に天井を見上げながら携帯電話を取り出し、仄香は郁から送られてきた『十戒』に関するメールを再度開いた。


十戒[Ten Commandments]【名詞】

 民を引き連れてエジプトを出たモーゼが、シナイ山にて神より授かった十の戒律。

 戒律の条文は、二枚の石板に刻まれていたという。

 戒めの一から五が神と人との契約をあらわし、戒めの五から十が人と人とのあり方をあらわしている。


 戒めの一 唯一の神を崇めよ

 戒めの二 汝、偶像を作るなかれ

 戒めの三 汝、神名をみだりに唱えるなかれ

 戒めの四 汝、安息日を聖なる日とせよ

 戒めの五 汝の父と母を敬え

 戒めの六 汝、殺すなかれ

 戒めの七 汝、姦淫するなかれ

 戒めの八 汝、盗むなかれ

 戒めの九 汝、偽証するなかれ

 戒めの十 汝、隣人の物を欲するなかれ


「……確かに、五番目だけ、なんか変ね。それに、ぶっちゃけ六番目以降はただの犯罪行為だし」

 これらが神話に残ってしまうほど、昔は治安が良くなかったのであろうか。

 確かに今の日本は、外国から見ると並外れて治安が良いようである。痛ましい事件もないわけではないが、年端もいかない少女が深夜にコンビニで買い物が出来るくらいには安全であるし、鍵が付いたままの車を放置しても盗まれることは稀である。

 だからこそ、ちょっとした犯罪であっても目立ってしまう。

「まあ、盗むにしても、カンニングなんて可愛いモノよね」

 さすがに、たかが香水で人殺しはしないであろう。

 犯人の目的はまるで分らないが、黒い上級生の話を聞けば、少しは何か掴めるかもしれない。郁の言う通り、彼女が犯人の可能性も否定できないが、関係者であることには変わりない。他に手がかりもないのだから、どれだけ細くても藁を掴むしかないであろう。

 分からないことの多さに苛立ちを覚えた仄香は、それらを飲み込むようにカップに残ったジャスミン茶を一気に飲み干した。

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