フェロモンの十戒
紫陽花
第一章 秘密の香り 1
春が好き
春は花が鮮やかに咲くから好き
薫る花の香
芯から立ち上る芳醇な香り
*
視覚、聴覚、味覚、触覚、そして嗅覚。
人間は世界を認識するとき、これらの五感をセンサーとして得られた情報を脳で処理する。また、これらのいずれかが失われたとしても、他の感覚がより鋭敏に発達して、さらに多くの情報を得ることもある。
しかし、これら五感の中で嗅覚だけは認識しづらい感覚であり、失われたとしても気付かない事が多い。それは、香りを表現する語彙の少なさにも現れている。
視覚――色彩豊かな芸術。目を見張る自然の風景。
聴覚――心に響き渡る楽の音。秋夜に満ちる虫の声。
味覚――満漢全席。フランス料理のフルコース。スイーツの食べ放題。
触覚――冷んやりとした夏の廊下。冬のコタツの暖かさ。人肌の柔らかさ。
嗅覚以外の感覚を彩る千の言葉や万の表現に比べ、香りを語る言葉のなんと少ないことか。
さらに、日常生活を行う上では、無臭や無香料が無菌と同等に扱われ、ドラッグストアにはそれらを売りにした製品が多く並んでいる。
都会で暮らしている人間にとって、嗅覚の必要性は薄い。人が社会生活を営む生物に進化した結果、視覚や聴覚によるコミュニケーション手段を発達させてきた為である。そしてその一方で、嗅覚は野生動物に比べて著しく退化していると言ってもいい。
だが、人間の嗅覚は退化しきっているわけではない。
認識しづらいだけで、他の四感と同様に嗅覚で得られた情報は人の心に様々な影響を与える。むしろ、気付かれにくいだけに、それは意識に直接染み入ってくるのだ。
そう、香りは、心に染み入るのである。
裸電球の薄明かりが、古びた工房を照らしている。
棚には掌サイズの小瓶が多く並び、それぞれに古びたラベルが貼られていた。ラベルのほとんどはアルファベットで書かれていたが、中には達筆な筆文字で、「十六夜薔薇」「
別の棚には、これもまた古い本が並んでいた。主に植物に関する書物が揃っており、日本語の他に英語やフランス語、中国語で書かれている本もある。
畳に換算して六畳ほどの空間は、薬品棚と本棚、そして厳重に密封された小箱で占められていた。それらは三方の壁に配置されており、中央の安楽椅子を囲んでいる。安楽椅子の正面にはオルガンと呼ばれる大きな作業台とキャスターのついた丸椅子、脇には小さなサイドテーブルが置かれていた。
オルガンとは調香を行う為の特別な作業台で、楽器のオルガンのような外見からそのように呼ばれている。調香師を囲むようにカーブを描いた香料棚が何段もあり、すべての香料が手を伸ばせば届くようになっている。
今は亡き祖母の調香工房。
三年前の中学二年のとき、仄香は祖母の薫子を交通事故で亡くしている。
生前、薫子は孫の仄香をとても可愛がっており、特に遺言などは無かったが、仄香がこの調香工房を引き継ぐことを親族のほとんどが反対しなかった。むしろ、仄香が引き継ぐことで安堵したとさえ言える。なぜなら、この工房には今では手に入れることが難しい、貴重な香料が無数にあったからである。そして、その価値を正確に受け継ぐことが出来たのも、祖母譲りの知識と才能を持った仄香しかいなかったからである。
例えば、『
『蘭奢待』には及ばないものの、祖母の工房にはそういった希少な香木がいくつもある。
また、近年は化学合成技術の発達で、天然香料と同等の香りを発する物質を合成することができるようになっているが、それでも合成に成功していない天然香料も数多い。そしてそういった天然香料は希少な動植物から採取されることが多く、ワシントン条約に抵触するものもあるので、現在では入手すること自体が困難な香料もある。
薫子の遺した工房には、そういう希少な香料も存在するのだ。
壁一面に並んだ香料瓶を眺めやり、仄香はその計り知れない価値にため息をついた。この工房の真の価値を理解しているのは、親族の中では自分だけだという自負はある。親族の多くは工房が価値あるものだと知ってはいても、理解はしていなかった。よく分からない絵画を相続したものの、とんでもない相続税に驚愕する遺族に似ているかもしれない。
実際、祖母が亡くなってすぐ、この工房を取り壊してマンションを建てようと言い出す親族もいた。その時に出てきた「臭くて近所迷惑だろう」というセリフを耳にしたとき、仄香は生まれて初めて殺意を覚えたのだ。
聖域を破壊しようとする野蛮人。
工房を壊そうとする親族は、年若い少女の目にそのように映った。そしてそういうことを言う者に限って、親族内での発言力が強かったりするのだ。
中学生の身分で親族を説得して回ったのは大変な苦労であったが、最終的には工房を保存し、管理を自分に任せてもらうことができた。名義上は母親のものとなったが、仄香が成人した暁には正式に相続することになっている。
説得の際、祖母から伝えられた知識が多いに役に立った。そのほとんどは、入手困難な香料の市場的価値を丁寧に説明するために使ったが、幾度かは香料そのものを使ったこともある。その方法は決して褒められたものではなく、そして、余人に知られてはならないものでもある。それを知っているのは、工房を守るのに協力してくれた幼馴染みの
クッション豊かな革張りの安楽椅子に身を沈め、仄香はサイドテーブルに置かれたアロマポットに目をやった。先程まで揺れていたキャンドルの火は消えている。
アロマポットとは、キャンドルの熱でアロマオイルを温めて香りを拡散する、最もベーシックな芳香器である。水やお湯を入れた受け皿にアロマオイルを数滴たらし、皿の下にキャンドルを置いて火をつける。そうすると、熱せられたアロマオイルが揮発し、香りが広がるというわけである。陶器製のポットが良く見られるが、ホーロー製の皿にアルコールランプという科学実験のような、昔ながらのシンプルな組み合わせもある。また最近では、火を用いない電気式の物も多い。しかし、仄香は祖母の使っていた古風な陶器製のアロマポットを使っていた。
香料は日光が厳禁なものも多いので、この工房に窓はない。強いてあげれば、入り口のドアにある嵌め殺しの小窓くらいだ。そのせいで、この中にいると時間の感覚が失われがちになる。それを嫌ってかどうかはわからないが、薫子が工房においた時計は、童謡にあるような年代物の柱時計であった。一時間ごとに重々しい鐘の音が響き渡るため、嫌でも耳に入る。輸入物なのか、文字盤はローマ数字で書かれ、針は先端に丸のあるブレゲ針をまねた装飾的なデザインだ。そして文字盤の中央には、柱時計には珍しいムーンフェイズがついている。テレビの鑑定番組などに出せば、結構な値が付きそうな骨董品である。
仄香が壁の柱時計に目をやると、針は十一時を指している。と、その瞬間に聞き慣れた、しかし不意に響くと心臓に悪い音が鳴り出した。都合十一回。普段の就寝時刻だ。
昨今の高校生には珍しく、仄香は早めに就寝する生活スタイルを通している。その代わり、朝は早い。おばあちゃん子であった仄香は祖母と生活スタイルを合わせていたせいか、同年代の少年少女たちと比べてもかなりの早寝早起きである。修学旅行などで夜更かしに挑戦してみても、誰よりも早く寝入ってしまう。この一点だけを見てババくさいなどと言われてしまうこともあるが、仄香にとっては理不尽な話だ。
寝る前にこの工房を訪れ、香りを嗅いでから床に就くのが仄香の日課である。香りは気分によって異なるが、今日の香りはラベンダーにしていた。鎮静作用のあるラベンダーの香りは、就寝用の香水としてはポピュラーなものだ。イライラを解消し、リラックスの効果があるラベンダーは、入浴時に湯船に垂らしてから浸かるという方法もある。
アロマポットを綺麗に洗い、読みかけのハーブの本を書棚にしまう。全てキチンと片付けられていることを確認した仄香は、祖母の遺してくれた調香工房を後にした。
「お休みなさい、おばあさま」
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