一章
第2話 怪物侯爵の屋敷
ネリネは一人、馬車の中で揺られる。窓の外の風景が流れていく。もう王都からは遠く離れていた。
散々泣いて、すっかり泣き疲れて、もう涙も枯れてしまった。
(私はこれからどうなるのかしら……。)
ネリネは不安に思うけれど、今の自分ではどうすることもできない。
もう帰る場所もない。心の拠り所もない。今はただ、行く先を案じて嘆くことしかできなかった。
***
ネリネを乗せた馬車は走り続ける。数日かけて移動して、ようやく北の辺境・プロヴィネンス地方が近付いてくる。
プロヴィネンス地方の最北は、魔国との国境だ。魔国とは魔物が棲む国であり、人間の国を狙ってたびたび侵攻を仕掛けてくる。
王都周辺は、アンダーソン家を始めとした聖魔法のスペシャリストが結界を張っているから魔物が入り込めない。
しかし辺境までは結界の力が及ばない。その為、たびたび魔物の脅威に晒されている。
だから辺境の領主――総督にあたる存在には、力ある人物が配置される。
『怪物侯爵』と謳われるアーノルド・ウォレス侯爵は、その役職に適任の人物だ。
複数属性の魔法の使い手で、優れた独自の魔術理論も構築している。おまけに画期的な魔術兵器も開発しているのだとか。それゆえ、彼の存在は敬われると同時に恐れられている。
「お嬢さん、怪物侯爵の館へ行くんだって? 悪いことは言わないからやめておきな。あそこは人間が暮らせる場所じゃないよ」
ネリネは王都を出た時とは違う馬車に乗り換えていた。御者に行先を告げると、顔色をかえて忠告してきた。
「でも他に行き場所もありませんから……家族に行けと命じられたんです。家に帰ることもできません」
「そうかい。それにしても難儀だねぇ……よりによって怪物侯爵の館へ働きに出るなんてさ」
「あの……ウォレス侯爵って、どんな方なんですか?」
「この国の英雄さ。魔国の主力部隊を壊滅させた実力者だよ。だけど残虐で人の心がないと噂されている。戦いとなると領民だろうと関係なく、土地ごと燃やし尽くすらしいよ」
「と、土地ごと!?」
「おまけに極度の人嫌いで、有事の時以外はずっと館に引きこもっている。だから何を考えているのかわからない。機嫌が悪い時は近づくだけで殺されかねないぞ」
「こ、こ、殺される……!?」
「働きに出た使用人もいるにはいるが、三日と持たずに帰ってくる。帰ってきた連中は震えあがって、侯爵の館で何が起きたのかまるで語らない。ただ『恐ろしい場所だった』と繰り返すだけだ」
「そんな……」
「一週間に一度、物資を運び込む業者がいるんだがね。これがまた無口な不気味な奴でさぁ。そんな男が前に酔った時に零した事があるらしいんだ。『あの屋敷は怪物の巣窟だ』……ってね。それらの噂から怪物侯爵と呼ばれるようになったのさ」
「…………」
ネリネは怖くなった。もしも何か失敗すれば、その場で殺されてしまうのだろうか?
(でも他に居場所なんてないし……せめて侯爵様の機嫌を損なわないように、一生懸命頑張ろう……!)
不安に押し潰されそうになりながら、ネリネは揺れる車内で過ごした。
やがて巨大な鉄門が見えてくる。怪物侯爵の館は、人里離れた山奥に聳え立つ黒い城だ。
城全体を黒い瘴気のようなものが覆っている。館を囲む城壁には、不気味な植物が茂っている。まるで悪魔が棲む城のようだ。
「ほ、本当に気をつけろよ。命が危ないと思ったらすぐ逃げるんだぞ!」
馬車はネリネを降ろすと、逃げるように来た道を戻っていった。
ネリネは覚悟を決めて、大きな門の脇にある小さな通用口へと向かう。
ドアノッカーを叩く。待つことしばし。やがて扉が開かれた。
「は~い?」
「あ、あの、私、ネリネ・アンダーソンと言います……アーノルド・ウォレス様から働きに来るように依頼されました……」
「ああ、話はきいているよ。……ふ〜〜〜ん」
「? どうかされたのですか?」
「ううん、何も。僕はルドルフ。この館で働く執事さ。よろしくね」
扉から出てきた青年を見てネリネは目を丸くする。
黒髪に長身の青年だ。年齢はネリネとさほど変わらないように見える。
こんな怖い場所に合わない朗らかな雰囲気をしている。口調もどこか気が抜けるような喋り方だ。身構えていただけに拍子抜けしてしまった。
「あなたが執事……? でもさっき聞いた話だと、この館には使用人が定着しないって……」
「それって人間の使用人の話でしょう? 僕は人間じゃないからね。ほら、見てみなよ」
ルドルフは自分の頭を指差す。彼の頭には大きな狼の耳が生えていた。
「僕は人狼(マーナガルム)のルドルフ。アーノルド様の『従属魔法』で従属している魔物さ」
「ま、ま、魔物……!?」
「安心しなよ。僕たちは人間に敵意を抱いていないから。アーノルド様の従属魔法のおかげでね」
「そ、そんな魔法があるんですね……」
「うん、そうだよ。だから君は安心して僕についてくればいいよ。案内するね」
「は、はい……」
ネリネは緊張しながらついていく。ルドルフは優しげな笑顔を浮かべている。けれど頭の大きな獣の耳の他にも、口からは鋭い牙が覗いていた。
(この人は本物の魔物なんだ……)
平和な王都で暮らしてきたネリネにとって、魔物を目の当たりにするのは初めてだ。
しかしルドルフの態度は陽気でフレンドリー。実家や魔法学院の人々よりも接しやすい。
確かに見た目は魔物だ。魔物の特徴がある。普通の人間ならそれだけで震え上がるのかもしれない。
だけど周囲の人々に冷たく当たられてきたネリネにとって、害意を向けてこないというだけで安心できる。
ルドルフはネリネを侯爵の部屋に案内する。この時間、侯爵は書斎にこもって仕事をしているそうだ。
「アーノルド様、ルドルフです。ネリネ・アンダーソン様をお連れしました」
「……入れ」
部屋の中から返事があった。ネリネはルドルフに案内されて、恐る恐る入室する。
書斎の中は広かった。天井が高く、壁には本棚が並び、床にも本が散乱している。
中央に大きな机があり、書類や筆記用具などが散らばっていた。
その向こうの椅子に座っていた人物が立ち上がる。
それは灰色の髪に赤い瞳を持つ、美しい青年だった。年齢は二十代半ばほどに見える。想像していたよりずっと若い。
怪物侯爵は日頃人前に姿を現さない。だから容姿や年齢に関する情報は驚くほど少なかった。
そのせいでもっと年老いた男の姿を勝手にイメージしていたが、実際はかなり若い男性だ。
彼は冷たい表情をしていた。目つきが鋭くて、視線だけで相手を射殺せそうな迫力だ。彼に見つめられると、ネリネも自然と背筋が伸びた。
「君がネリネ・アンダーソンか?」
「はっ、はい、ネリネ・アンダーソンです。本日からこのお屋敷でお世話になります、よろしくお願い致します……!」
緊張しながらも自己紹介する。アーノルドは顎に手を当ててネリネを眺める。
「……随分細いな。ちゃんと食べているのか?」
(えっ? こんなガリガリでちゃんと働けるのか心配されてる!?)
「だっ、大丈夫です! こう見えて体力には自信があります!」
「本当に大丈夫なのか? 無理をさせて体に負担があってはいけない。まずはよく食べて健康状態を整えるように。いいな、ルドルフ?」
「かしこまりました~。厨房係によく言い聞かせておきますね~」
「それと、夕食前には入浴も済ませておくといい。着替えはこちらで用意してある」
(メイド服とかかしら? お仕事の制服を用意してくれたのね。嬉しいわ)
「はい、ありがとうございます」
「では、私はこれで失礼する。夕食の席でまた会おう」
アーノルドがそう言うと、ルドルフはネリネを連れて廊下に出る。
そして彼女を一階の大浴場まで連れて行くと、「じゃあ頑張ってね」と言い残して去っていった。
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