第13話 手作りのバスソルト
……それから一時間後。
「失礼します、アーノルド様」
ネリネはノックをして扉を開ける。アーノルドは机に向かっていた。どうやら魔術理論の研究中だったらしい。
机の上には難しい資料が並べられ、あちこちに魔術式が書かれたメモが散乱している。
「ああ、ネリネか。作業は終わったのか?」
「はい。庭造りの作業が終わりましたので、報告に参りました」
「そうか、ご苦労だったな。……ちょうどこちらも一区切りついたところだ。拝見させてもらおうか……ん?」
ネリネの脇を横切ったアーノルドは不思議そうな顔をする。
「良い香りがするな……これは花の匂いか?」
「は、はい。庭仕事で汚れてしまったので、ご報告の前にお風呂で汚れを落としてきました」
「そうか、もちろんそれは構わないのだが……この香りは? とても心地よい香りだな。屋敷で使っている石鹸とは違うようだが」
「えっと、実はバスソルトを作ってみたんです。アーノルド様はお風呂がお好きとのことですので、喜んで頂けたらと思って……これです」
ネリネはおずおずと、掌大の巾着袋を差し出した。
中には岩塩とドライハーブが入っている。花の精油の良い香りも微かに漂っている。
「ほう、これが……」
「はい。最近作ったばかりで、試作品なのですが……。お気に召さなかったら処分致しますので……」
「いや、折角作ってくれたのだ。使わせてもらおう」
アーノルドはネリネの手から受け取ると、興味深げに見つめる。
「ふむ……」
「ど、どうでしょうか……?」
「なに、少し驚いただけだ。ネリネが俺の為に作ってくれたと思うと嬉しいものだな」
「あっ……いえ、そんな……」
「それに……確かにいい匂いだ。疲れが取れるような気がするな」
「よかった……」
ネリネはホッとする。気に入って貰えたようで安心した。これでまた一つ、アーノルドの為になることが出来た。
「では庭に行こうか」
「はい、ご案内します!」
ネリネは緊張した面持ちで、完成した庭園を見せる。
花壇にはチューリップやアネモネの苗が植えられている。
まだ花は咲いていないけれど、咲くのを楽しみにしてもらえるといいと思う。
枝が伸びっぱなしだった庭木は剪定して、丸いトピアリーにしてある。
新しい庭木も植えた。成長すれば白やピンクの花をつけて、季節ごとに違った顔を見せてくれる筈だ。
そして今の庭で一番の見どころは池だ。つい先日まで濁った毒沼のようだった池は、今や見事なビオトープになっている。
「ほう……これは見事だな」
アーノルドは感嘆の声を上げると、東屋(ガゼボ)の椅子に座って庭園を眺める。
ちなみにガゼボもネリネが綺麗に掃除しておいたからピカピカだ。元の素材の大理石も美しい光沢を放っている。
「如何でしょうか?」
「うむ、実に素晴らしい出来栄えだ。よく頑張ってくれた。感謝するぞ」
「いえ、アーノルド様のお役に立てたのならば光栄です」
「美しい庭を見ていると気分がいいな。そうだ、今日はここで昼食を食べるとするか。ネリネ、君も一緒だ」
「えっ、よろしいのですか!?」
「無論だとも。ネリネの料理の腕は知っているからな。期待している」
「は、はいっ! 頑張ります!」
実家では家族と一緒に食事をした記憶がない。
いつも一人ぼっちで寂しく、両親や妹の食事が終わった後で一人テーブルに着いていた。
でも今は違う。一緒に食べる人がいる。それがこんなにも嬉しくなるなんて思わなかった。
「……? どうかしたのか、ネリネ」
「いいえ、なんでもありません。ただ……アーノルド様とお話ししていると、幸せだなあって感じていたんです」
「……幸せ? 俺と話すと、幸せだと?」
「はい。アーノルド様はとてもお優しい人ですから、話していると幸せな気持ちになれます」
「……そんなことを人から言われたのは初めてだ。君は変わっているな」
「そ、そうでしょうか……? このお屋敷で働いている人たちも、みんなアーノルド様のことをお優しいと言っていますよ」
「そうかもしれないが、幸せだと言われたのは初めてだ。ありがとう、ネリネ」
「い、いいえ、こちらこそ……!」
ネリネは頭を下げると、急いで厨房に向かう。
そして生活魔法の『料理(クッキング)』で手早くサンドイッチを作る。
付け合わせは野菜のスティックサラダとベイクドポテト。飲み物はアイスティーを用意する。
品目はそれなりに沢山あるが、生活魔法を使ったおかげで用意するのに三十分もかからない。
「アーノルド様、お待たせしました」
「もう完成したのか。手際が良いな」
ネリネはアーノルドの前に皿を置くと、サンドイッチを並べた。そして自分の分も用意する。アーノルドはその中の一つを口に運ぶ。
「……どれも最高の味だ。特にこのフルーツサンドは絶品だな。果物の甘味と酸味、それにヨーグルトソースの爽やかな風味がとても良いアクセントになっている」
「良かったです!」
「ネリネも見ているだけではなく、一緒に食べるといい。折角作ってくれたのに、私が独り占めするのは悪いだろう?」
「はい、いただきます。……うん、おいしい。ちゃんとできている」
ネリネは自分が作ったものを自分で食べてみて、問題ないことを確認する。アーノルドが言った通り、どの料理も文句なしにおいしかった。
***
そして夜になった。
アーノルドはネリネが作ったバスソルトを使って入浴する。
バスソルトは湯船に入れると、シュワっと溶けてお湯に良い香りが広がる。
「ほう、これは凄いな。まるで海の中にいるようだ」
大浴場の湯船は広いので、アーノルドと二人で入っても充分余裕がある。
しかしネリネは緊張していた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
ネリネは今、生まれて初めて男性と一緒にお風呂に入っている。
(なんで!? どうしてこうなった!?)
夕食後、アーノルドからバスソルトの説明を入浴しながら聞きたいと頼まれた。
最初はもちろん断ったネリネだが、使用人たちが水着を用意してくれたのを見ると断れなくなってしまった。ネリネは押しに弱いのである。
そして現在、ネリネはアーノルドと二人だけで大浴場にいる。
もちろん水着を着用しているが、それでも緊張するものはする。
(アーノルド様の身体、すごく大きい……私とは全然違うなあ……)
アーノルドはネリネより一回り以上大きな体格をしている。ネリネが小柄ということもあるが、それでもかなり差がある。
その筋肉質で引き締まった肉体は、とても男らしくて逞しい。
普段は書斎にこもって研究していることが多いが、さすが国境を預かる総督である。目立たないだけでしっかり鍛えているようだ。
「ネリネ、どうしたんだ?」
「ひゃい!?」
「随分と緊張しているようだが……」
「す、すみません! こここ、こういう事態に不慣れなもので……!」
王族や名門貴族ともなれば、入浴に際して使用人に世話してもらうこともある。
アーノルドはそういうつもりなのだろう。
だがネリネは違う。ネリネは一応貴族令嬢だが、お世話する側だった。
そして実家では貴族の男は父しかおらず、父はネリネを毛嫌いしていたから入浴介助させることはなかった。
つまり、こんな事態は完全に初めて。何をどうすればいいのかサッパリ分からない。
「そうか……。まあ、あまり固くならない方がいいぞ」
「む、無理ですっ! 私のような者には刺激が強すぎますっ!!!」
「……これではバスソルトの説明が聞けないな」
アーノルドはため息をつくと、お湯の中で縮こまっているネリネに歩み寄り、肩に手を置いた。
「あっ、あああ、アーノルド様っ!?」
「ほら、リラックスしろ。それでは疲れが取れないだろう?」
「で、ですけど……」
「深呼吸をするといい。肩の力を抜いてリラックスするんだ。いいか、ゆっくりやるぞ。まずは吸って」
「……すー」
「吐いて」
「はー……」
言われるままに深呼吸すると、少し心が落ち着いた。
「よし、いい子だ。落ち着いたか?」
「は、はい……ありがとうございます」
「それでいい。さっきまでのネリネは緊張しすぎだ。もっと自然体に振る舞えばいい」
「はい……わかりました」
「では、このバスソルトの説明を聞かせてもらえるか?」
「あ、はいっ。ええとですね……このバスソルトは天然塩とお庭のハーブ、それから城下町で買ったお花の精油をブレンドして作りました。塩が発汗を促してくれますし、香りによってリラックス効果も期待できます。また、お肌の保湿にも効果があるんですよ」
「なかなかいいな。気に入ったぞ」
「ありがとうございます!」
「これがあれば毎日入浴するのがますます楽しみになりそうだな」
「はい。あ、ただし注意事項があります。お使いの際はこの巾着袋に入れたまま使ってくださいね。中身を出してしまうとお湯が汚れてお掃除が大変になりますから」
「なるほど。わかった」
「あと、これは余談なんですが……」
「何だ?」
「ハーブや花の組み合わせで、お好きな香りを作ることもできます。リクエストがありましたら、いつでも教えてくださいね」
「ああ、そうしよう」
ネリネは嬉しくなる。アーノルドに喜んで貰えたこともそうだが、彼との距離がグッと近づいた気がしたからだ。
「ふぅ……」
「どうした? そろそろ上がるか?」
「はい、そうですね……少しのぼせてきたかも……」
「顔が真っ赤だな。一人で歩けるか?」
「はい、なんとか」
「無理をする必要はない。掴まりなさい」
「きゃあっ!?」
アーノルドはネリネを抱き上げると、そのまま脱衣所に向かう。ネリネは彼に身を任せたまま、されるがままだった。
「君はしばらく座って湯冷ましするといい。俺は先に失礼する。ああ、水でも持ってこようか?」
「え、いえ、平気ですっ……!」
「遠慮することはない。ちょっと待っていろ」
アーノルドはネリネを椅子に降ろすと、手早く着替えて浴室を出ていく。
しばらくして、彼は水の入っているグラスを持って戻ってきた。
「ほら、これを飲みなさい」
「あ、ありがとうございます」
ネリネはグラスを受け取ると、少しずつ飲んで喉を潤していく。冷たい水が火照った身体に染み渡るようで気持ち良かった。
「美味しい……」
「そうか。もう大丈夫だな」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「気にするな。俺の方こそネリネを長湯に付き合わせてしまった。今後は気をつけなければならないな」
「そんなことは……」
「今日はもう休もう。部屋まで送っていく」
「はい、お願いします……」
ネリネは立ち上がると、アーノルドに手を引かれながら歩き出す。彼はネリネの手を握ると、優しくエスコートしてくれた。
(温かいな……)
こうして誰かと触れ合うのは久しぶりで、とても懐かしく感じる。
ネリネはつい昔のことを思い出してしまい、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
「ネリネ、どうかしたのか? 急に立ち止まって」
「……なんでもありません。ただ、昔を思い出していただけです」
「子供の頃のことか? 君はどんな幼少期を過ごしていたんだ?」
「……あんまり楽しい思い出はありません。でも一つだけ、とても良い思い出があるんです」
「ほう、どんな思い出か聞いてもいいか?」
「はい。……私には妹がいるんですけど、その妹と二人でお屋敷を抜け出して、こっそり遊びに行ったことが一度だけあるんです」
「ほう、それは楽しそうな話じゃないか。一体どこへ行ったんだ?」
「近くの町です。大したことはなくて、二人でお買い物をして買い食いをして、日が暮れる前に帰りました。そんな他愛のない思い出です」
けれど屋敷に戻ると、怒り狂った父が待ち構えていた。
ネリネは折檻されて地下の座敷牢に三日閉じ込められた。
そして解放されると、赤く腫れた頬が痛々しい養母と妹のミディアがいた。
……彼女たちも父の『躾』に遭ったのだということは、一目で分かった。
それ以来、養母とミディアはネリネに近づかなくなった。
父の意向に背かないようにと、ネリネがどんなにひどい目に遭っても見て見ぬフリをするようになった。
「…………」
「どうした、ネリネ? 泣いているのか? もしかして、何か嫌なことを聞いてしまったか?」
「……違いますよ。これは涙じゃなくて、汗です」
ネリネは誤魔化すように微笑む。だがアーノルドは騙せなかったようだ。
「……すまなかった。辛いことを思い出させてしまったようだな」
「いえ、アーノルド様は何も悪くありません。私は平気です。昔のことですし……今はとても幸せですから!」
いつの間にか部屋の前に辿り着いていた。ネリネは気丈に笑うとアーノルドから離れ、ペコリと頭を下げる。
「送っていただき、ありがとうございました。また明日もよろしくお願いします」
「ああ、お休み」
「おやすみなさい」
アーノルドはネリネの頭を撫でると、自分も部屋へと戻っていった。
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