第23話 丹坂の戦い(六) まさかの濁流
「ぐずぐずするな! 落伍した者は置いて行くぞ!」
後続の味方に対する島原純茂の催促が空に響く。
龍造寺の伏兵は何とか振り切ったものの、味方は四分五裂となってしまい、追撃も未だに続いている。
さらに愛馬も斃されてしまい、一目散に逃げる事は叶わなくなっていた。
そこで、彼は身の安全を図るべく、難を逃れた者達を一旦集結させようと、進軍を止めていたのだ。
だが、いくら待っても集まって来る兵達は
乱戦の中に取り残された者には催促は聞こえない。手負いの者は追いつくのがままならない。それに、そもそも総大将が難を避けて、丹坂山の西麓からさらに西へ向かった事を、ほとんどの兵が知らないのだから、仕方の無いところだろう。
やがて、無数の日足紋の旗差が純茂の双眸に映る。
そして耳をついてくる喊声。追いつきつつあった龍造寺勢の姿に、純茂は思わず舌打ちすると、馬を返し再び逃走を続ける他なかった。
※ ※ ※
さらに、退却の最中、純茂は後続の兵から訃報を受け取っていた。
「無念の極みにございます。主の姿を懸命に探しましたが、ついに探し出すこと叶わず…… おそらくは、あの乱戦の中にて御最期を遂げられたものと思われまする」
「ぬうう、そうか……」
言葉を詰まらせつつも訃報を告げてきたのは、安徳直治の家臣であった。
この時すでに島原、安徳、安富など、軍の中核を成す国衆の一族にも、命を落としたり、行方知れずになった者が多数に上っている。
そのような状況下にあって、家中最上位の家臣、老臣である安徳直治の死は、有馬将兵の表情をより悲壮なものに変えていた。
だが、純茂は丹坂山の方角をキッと睨んだだけで、すぐに歩き始めた。
行き先は西の方向、牛津川の浅瀬である。龍造寺勢に追いつかれる前に、防衛線である川だけは、何としても渡っておかねばならなかったのだ。
ところが、川のそばまでやって来た時、その様子は朝とは異なっていた。
「ぬっ、水
「た、確かに」
純茂は理由を尋ねるが、従う家臣達も皆眉をひそめるばかり。
彼らは未明、現地の地侍、松瀬周防守の案内により、踏み石を伝って渡河していた。その時は、石の表面が露わになる程、水位は低かったのだ。
ところが、今、川はすでに腰までの高さに達し、流れも速く、泥を含んで濁っている。
他に渡河できる所は無いのか。純茂と家臣達は川に沿って目を凝らしてみるものの、やはり浅瀬はどこにも見当たらない。
戦国時代の人々は、基本的に泳ぎ方を知らないため、うかつな渡河は禁物である。
となると、どこにも向かう事が出来ず、立ち往生したまま、追撃の餌食になってしまうのではないか。そんな危惧が、有馬将兵の頭の中で膨らんでゆく。
するとそこで、南の方角を指差しながら、咄嗟に一人の兵が声を上げた。
「殿、あれは早馬にございませぬか⁉」
声に応じて純茂が対岸の南に振り向くと、こちらに向かって走って来る騎馬武者の姿が窺える。
咄嗟に彼は察した。背にしている旗指の色と形状からして、おそらく有馬本陣の使番だろうと。その推測のとおり、早馬は夢解きの結果と停戦を命じるべく、義貞が派遣した者であった。
ただ、その使番は妙な動きを見せていた。
純茂のいた所に辿り着くには渡河しなければならないのに、何故か川沿いの道を脇目もふらず進んでゆく。
何かに追われているのではないか。そう思い、皆が首を傾げていた時に、事件は起こった。
「あっ、おい!」
居合わせた者達、皆が声を驚愕の声を上げていた。
浅瀬を見つけられず、無理やり渡河を試みた使番が、その最中で斃れてしまったのである。
純茂も兵も直ちに回れ右、川のそばから一目散に駆け出してゆく。
一体どう言う事なのか。その光景を彼らは全く想定していなかった。
もしかすると、地元の者ならば知っていたかもしれない。
しかし、案内役を務めた松瀬周防守とその手勢は、すでに龍造寺伏兵の餌食となり、この場にはいなかったのだ。
やがてそれはたちまち飲み込んでゆく。そばにあった岩石や草木を。
そこへ、丹坂方面から後続の有馬兵がやって来る。だが、皆、純茂同様に顔を歪ませると、元来た道を引き返そうと駆け出してゆく。
あり得なかった。受け入れられなかった。
朝には優しく流れていたこの牛津川が、まさか豹変するとは──
「に、逃げろ、川から溢れるぞ!」
川のそばまでやって来た有馬兵達が、気付いた時には遅かった。
出くわしたのは牛津川を遡上してくる潮水である。ゆうに川からあふれ出し、怒涛の勢いで川辺の草木を飲み込んでゆく。
「止まれ! 押すな、押さないでくれ!」
流れに飲み込まれる寸前で立ち止まり、兵達は声を荒げる。
しかし、龍造寺の追撃から逃れたい一心の、さらに後続の兵達が止まるはずがない。
川の傍にいた者達はたちまち押し出され濁流の中へ。
そして、その光景を見て悲鳴を上げた者も、押されて踏み外し飲み込まれてゆく。
有馬勢は天運から見放されていた。
牛津川は有明海に通じ、満潮時に逆流が生じる河川である。そして、この時も確かに逆流は生じており、普段なら穏やかなものであった。
ところが、決戦当日に起きた阿蘇山噴火による地震が、様相を一変させていた。
震源地付近で発生した津波は、海を通じて一気に牛津川まで到達。逆流と相まって、現地の者も想定出来なかった程の潮水が押し寄せて来たのだ。
懸命に遁走した純茂とその手勢は、間一髪北西の高地へと辿り着く。
だが、視線の先に写った地獄絵図により、彼らは言葉を失っていた。
川のそばで進退窮した兵達に、後続の味方がなお押し寄せる。
そこへ容赦なく襲い掛かってゆく龍造寺勢の追撃。逃げ道は北西しかないのだが、混乱している兵達に理解する余裕はなく、次々にその槍の餌食となっていった。
「殿、この川の様子だと暫く潮水は退きますまい。多久梶峰城へ向かうしかありませぬ」
家臣の提案に純茂は力なく頷くしかなかった。
小城北部における牛津川の流路は、北西から南へとカーブを描いている。
なので、有馬本陣が置かれている南、しばらく陣を構えていた百合岳のある西、どちらにももう戻れない。
残された選択肢は、潮水を避けつつ北西の道を進み、多久梶峰城へと落ち延びるしかなかったのだ。
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