第10話 柳鶴の戦い(二) 派兵の手引き
長らくの梅雨を乗り越え、街道沿いの草むらが、夏の熱気を吸い込んで辺りを蒸し返らせている。
その中を軍勢が汗だくになって進みゆく。六月中旬、有馬仙岩が命じた先遣隊が、ついに杵島郡へとやって来たのだ。
彼らが陣を構えたのは、砥川の西にある
盛夏を迎える中、遠路を駆け抜けてきた、彼らの疲労は半端なものではない。
しかし、それでも吹き抜ける山風に癒され、眼前にうかがえた百姓達が籠る小さな砦を見下すことで、平静を取り戻していった。
率いてきたのは老臣(有馬家中における最上位の家臣)の
通常、戦国時代の戦においては、先陣には寝返った者、もしくは敵との境目に領地を持つ者が任される事が多い。
しかし、今回は家中の中核を成す、忠誠心の高い者達だけで構成されていた。家の威勢を見せつけようと、有馬が如何に意気込んでいたかが窺えるだろう。
ただ、忠誠心は高くとも士気は別であった。
何せ目的は、
さらに、着陣早々彼らを予想外の事態が待ち受けていた。
「集落を制圧され、家族を人質にされては
と、砦に籠った百姓達の代表が陣へやって来て
そして砦に目をやると、籠っていた百姓達が続々と竹槍を捨てて逃げ出してゆくではないか。
手のひら返しが百姓の常とは言え、あまりの早さ。呆気に取られた先遣隊の将兵は、揃って軽蔑の眼差しを突きつける。
だが、百姓達は誰かを殺した訳ではない。徭役に反発して砦に籠っただけである。
しかも境目という、敵の調略を受けやすい土地柄を考慮した結果、安徳直治は許さない訳にはいかなかった。
「よかろう。今回は許してやるが二度目は無いと思え」
「ははーっ!」
戦は終わってしまった。
否、睨みつけただけ。わざわざ島原半島の南端から数日かけてやって来て、戦果がこれだけとは、余りにも張り合いが無さすぎる。
当然、功と乱取りへの期待に胸を膨らませていた将兵達が、穏やかにしている訳がなかった。
数日後、直治は使番を通じて諸将に陣払いを命じる。
だが諸将は一致して本陣へとやって来た。家中の有力国衆の一つ、島原氏の一族である島原兵部少輔を代表として、直訴に及んだのだ。
「退陣とはあまりにも酷な仰せ。刀が泣いておりますぞ、安徳様。武功の一つもないまま帰郷となれば、皆家族に立つ瀬がございますまい」
「ううむ、そなた達の気持ちも分かるが、しかしだな……」
「せっかく境目まで来たのでござる。小城にて
『おおおっ!』
幔幕の中に好戦派諸将の声が響き渡る。
その様子を眺め、己の申し出こそが将兵の総意であると思った兵部は、ニヤリとしてみせた。
しかし、直治は苦虫を嚙み潰した様な表情を崩せなかった。
仙岩からは、砥川に留まり小城や佐嘉へ向かうなと厳命されている。
しかも、有馬は長年に渡り小城侵攻を繰り返してきたが、現地の抵抗激しく、結局のところ勢力を扶植するには至っていない。
その歴史をかえりみない彼らの意見は、あまりにも楽観過ぎる。
となると、大喝して場を鎮めるしかないのか。
そう直治が意を決した時だった。一人の家臣が幔幕の外にやって来てひざまずいたのだ。
「申し上げます!
「ふん、今頃になってようやく来おったか。だが、使者とはどう言うつもりだ?」
※ ※ ※
「野田右近と申しまする。こたび遠路はるばるの御出馬、主、俊光に替わり、深く御礼を──」
「俊光はどうした! 渦中である砥川の地侍が、なぜ真っ先に駆けつけて来ぬのだ!」
「真に申し訳ございませぬ。実は俊光は今日まで調略に
馬渡俊光の家臣、野田右近はそう告げると、一通の書状を差し出した。
本陣には遥かに格上の諸将が居並んでいる。しかし、腹の据わった彼の堂々たる物言いからは、どんな状況になっても不動を貫かんとする、使者としての覚悟が窺えた。
直治は受け取り目を通す。そこには以下の様な事が記されていた。
「何とぞ小城郡
小城郡芦刈は、龍造寺に味方する地侍達が多い所である。
だが、彼らが束になっても所詮有馬の敵ではない。
なので芦刈に赴けば、地侍をやっつけて功を挙げられる上に乱暴狼藉も出来る。俊光は償いとして、その手引きを申し出てきたのだ。
直治が内容を諸将に説明すると、場はたちまちどよめきに包まれた。
先遣隊諸将にとって、願ったり叶ったりの申し出である。しかも、調略をしていたとなれば、現地の寝返り者の協力も見込めるのだ。期待に胸を膨らませない訳にはいかないだろう。
だが一人、直治だけはその表情をたちまち歪めていた。
「ふん、わしは騙されんぞ。実のところ、俊光は城で
「懸念はごもっともにございます。されど本日はもう一通書状を持参いたしました。これにて御理解頂けるかと」
「……誰からのものだ?」
「芦刈の地侍、徳島信忠様からでございます」
徳島氏も龍造寺に味方する小城芦刈の地侍である。
書状には、芦刈派兵を機に有馬へ投降したい。そしてその折には、自ら一軍を率いて馳せ参じるつもりである旨が
「なお御疑いとあらば、それがしをここに留め置き、人質となされても結構。姓は違えど馬渡一族にござる。芦刈までの道中、御味方を案内致しましょう」
そうつけ加えて、右近は神妙に頭を下げる。
だが直治の表情は晴れないまま。頭に浮かぶのは仙岩の鬼の形相だ。
無断で小城に侵攻し、万が一戦になって敗れたりしたら、どの面下げて釈明したら良いのだろうか。
しかし、戦場で優先されるべきは現場の判断である。
将兵の多くが鬱憤を抱えている中、芦刈派兵はその解消になる。
しかも相手は難なく踏みつぶせる地侍達だ。危険が生じる可能性はどう推し測っても小さいはず。
直治は葛藤し、しばし沈黙する。そして──
「よし、ならば今からついて参れ」
※ ※ ※
直治と家臣達、そして野田右近が向かったのは、堤尾岳の東側にある高台であった。
ここからは眼下に芦刈の景色が広がっている。迷った直治は、直に様子を窺おうとやってきたのである。
直治は早速、見張りをしている当番の者を呼び付け、小城郡南部の様子について尋ねる。すると──
「実はここ五日ほど、朝夕に立ち昇る炊飯の煙を目にしておりませぬ」
「何っ⁉」
「どの集落を見ても静まり返ったままゆえ、おそらく逃散したものと思われます」
「真か! まだ攻め込む素振りすら見せていないのだぞ⁉」
当番の者の報告に驚き、直治は己の目で確かめようと東の方角を睥睨する。
すると、確かに集落の家々、道々、そして田畑に至るまで人の姿が窺えない。異常としか言い様がない光景が広がっていた。
思わず直治は唸っていた。
逃散が事実ならば乱暴狼藉はやりたい放題だ。こんな好条件をむざむざ捨ててよいのだろうか。
何も龍造寺や千葉の領内を荒らし回るのではない。小さく収めれば良いのだ。
そう、地侍達しかいない芦刈という小さな地域に、少し乗り込んで暴れるだけならば──
そう考えを固めた直治は、右近に向き合うとキッと睨んで宣言する。
「よし、俊光の手引きに乗ってやる。そなたはここに残り道中を案内致せ。ただし、裏切りが発覚した際には首を刎ねる。左様心得ておけ、よいな!」
「ははあーっ!」
一際腹の据わった右近の返事が辺りに響き渡る。
続けて諸将から喜びの声が上がる中、直治は頷くと踵を返し本陣へと去っていった。
やがて右近と監視役の兵達を残し、諸将も続々と高台を後にする。
その間も、右近は変わらず一人平伏したまま。ゆえに、その顔の下で彼がニヤリとしていたとは、誰も知る由がなかったのだ。
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