第9話 柳鶴の戦い(一) 地侍達の謀議
さて、この小説のタイトルである
ここでは、その小城郡における永禄六年当時の状況について、少々触れておきたい。
小城郡とは、肥前のほぼ中央に位置した郡であり、東は佐嘉郡、西は牛津川を挟んで
北部は
神代氏は長年龍造寺と抗争を続けたものの、永禄四年九月、佐嘉郡川上にて決戦に及び敗北。後に龍造寺の威勢に屈する形で和睦を結んでいる。
そして山の麓から南に広がる平野部には、小城(※郡ではなく郡内の一地域)を本拠とする名家が存在した。肥前千葉氏である。
千葉氏は鎌倉時代、肥前の地頭職を束ねるの惣地頭の立場にあった。当時の小城は肥前国府の如き繁栄を誇ったと言う。
しかし戦国時代に入り、家は御家騒動と土一揆に見舞われた末、東西に分裂。威勢は大きく衰退してしまう。
それでも永禄二年(1559)、西千葉家当主の
以後、龍造寺の同盟者として、小城一円に勢力を維持していた。
そして小城郡の南部には、千葉氏や龍造寺氏に味方する国衆や地侍達が多数存在していた。
この時、龍造寺隆信は肥前の東端に近い三根郡にて、国衆、馬場鑑周の本拠中野城を攻めていた。
ゆえに砥川に向けて援軍を送る事が出来ない中、彼ら小城南部の龍造寺支持者たちが、情勢を大きく変えることになる。
※ ※ ※
「ようこそおいで下された。ささ、こちらへ」
小城郡にある牛津川沿いの小さな寺でのこと。
そこの客間にて、
鴨打胤忠とは、小城郡南部にある
彼は案内した客人に向き合う形で腰を下ろすと、その丸顔から愛嬌のある笑みを零していた。
「それがしも隆信公も、貴殿と
「待たれよ、鴨打殿。念を押しておくが、それがしはまだ龍造寺に付くと決めた訳ではござらん」
「無論心得てござる。龍造寺と有馬、二強の狭間に置かれた家の舵取りとは難儀なもの。心中お察しいたしますぞ」
胤忠に釘を刺したのは、砥川の一地域を治める有馬傘下の地侍、
彼は数人の家臣のみを連れ、砥川と小城郡との間に掛かる大橋を夜闇に紛れて渡り、密かに寺へとやって来ていたのだった。
彼にとってここは敵領。当然表情には警戒の色が滲んでいる。
それを察した胤忠は、まず警戒を解くべく朗らかに話し掛けた。
「いやはや、お互い境目の領主とは難儀なものにござるなあ。戦となれば先陣を、敵勢力の調略を、兵站の整備を、上位の方が着陣なされば饗応をと、やるべき事は山積じゃ」
「…………」
「情けない話だが、おかげで当方は銭が幾らあっても足りぬ。加えて領内には草(忍び)があちこちで跋扈し、寝返る家臣達も後を絶たぬ始末──」
「鴨打殿、それがしは雑談をしに参った訳ではない。隆信公から寝返りの誘いを受け、詳細を確かめに参ったのだ。まずはそれをしかと明かしていただきたい」
灯明皿のわずかな灯りに揺られ、俊光の表情がおぼろげに胤忠の双眸に映る。
ふふっ、せっかちな奴め。胤忠はその意を込めてわずかに笑みを零すと、懐から書状を取り出して渡した。
「隆信公は貴殿の事をいたく心配しておられる。砥川の集落を六つも傘下に収めたのは僥倖。されどその近隣にいる貴殿に、疑いの目が及ぶのではないかとな」
「…………」
「有馬は砥川鎮圧のため兵を向けたと聞く。今から貴殿が合流しようとしても、その監視下に置かれるだけでござろう。領内には有馬の兵が居座り、もしかすると人質を出せと脅してくるかも──」
「わざわざ申されずとも、懸念は重々承知しておるわ」
と、書状に目を通し終えた俊光は、胤忠の説明を遮って、苛立ち交じりの視線を向ける。
ただ、その手も声も明らかに震えを隠せていない。
やはり踏んだとおり。察した胤忠は立ち上がり、俊光の傍まで寄ってきて腰を下ろした。
「ならば選択肢は一つだ。ためらう理由はありますまい」
「……この書状にあるとおり、隆信公の所領安堵を信じてよいのだな?」
「これから有馬との戦になる。そこで功を挙げれば、安堵どころか加増にありつけるのですぞ。なァに心配御無用。もし隆信公が約束を違える様な事あらば、仲介役たるそれがしが、面子に賭けて貴殿に御味方致しましょうぞ」
胤忠はずいっと顔を近づけると、凄みを利かせ返答を迫る。
そしてぱっと満面の笑みを浮かべてみせた。武骨で皺混じりの中年の笑みなど、見目麗しいものではないが、俊光の心証を良くするには充分であった。
「相分かった、鴨打殿。ならばその書状に血判を押すとしよう」
※ ※ ※
こうして寝返り交渉はまとまった。
灯明皿の灯りの下、俊光は起請文に署名をして血判を押してゆく。
これまで彼は、有馬傘下として先祖代々受け継いできた領地を守り、一族家臣達を束ねて来たのだ。寝返りの決断は大きな賭けである。彼の手は僅かに震えていたが、無理もない事であった。
やがて俊光は意を決して、したため終えた起請文を胤忠に手渡す。
ところが、受け取った胤忠は不備がないか確認した後、突然にやけてみせた。
「では馬渡殿、さっそくだが味方となられた今宵、ぜひ会っていただきたい方がおる」
「会っていただきたい方?」
他家の領内ゆえ、長居は無用なのだが。
一礼してそそくさと立ち去ろうとした俊光は、想定外の申し出に動きを止め、胤忠に怪訝な眼差しを向ける。
しかし、胤忠は気にする事無く、家臣に命じて、俊光の背後にあった部屋の襖を開けさせた。
部屋の中にいたのは直垂姿の武士二人であった。
そして、その奥には家臣と思しき数人の者達が侍っている。
俊光の眼差しは一層険しくなっていた。皆面識の無い者達ばかり。それらと初対面の胤忠主従に挟まれる格好になっていた彼は、何が起きるのか予測出来ず、油断する訳にはいかなかった。
「鴨打殿、こちらは如何なる御仁か?」
「それがしが招待致した近隣の地侍、野田殿と
「何っ、貴公達がどうしてこの寺にいるのだ!」
野田、乙成両名とも牛津川近くの地侍である。
面識はなくとも、俊光がその家名を知らないはずがない。両名から丁寧な名乗りと一礼を受け、彼もまたそそくさと名乗り返礼する。
だが、事情が飲み込めず、すぐに胤忠を振り返り睨みつけていた。
対して、胤忠はにやけたまま返答しようとしない。さらに立ち上がると、客間に入る様、廊下に向かって声を張ってみせたのだ。
やがて応じてやってきたのは、直垂姿の武士一人と数人の供だった。
御免と一言告げ、一礼して入って来る姿に、俊光は唖然として立ち尽くすばかり。
「こちらは陣の森城の徳島殿にござる」
胤忠の紹介を受けても、俊光は表情を崩そうとしない。
徳島家は鴨打家と同じく、芦刈を本拠とする龍造寺方の地侍である。
その当主である信忠が、どう言う訳か目の前にいるのだ。
俊光の動揺は至極当然のこと。ついに彼は、大きな足音を立て胤忠の眼前まで詰め寄って来る。
「どう言うつもりだ鴨打殿! 今宵は寝返りの密談だけだと──」
「さて、役者は揃い申した。時が惜しい。今より対有馬についての密議を始めさせていただく」
「密議⁉ まさか我々だけで有馬を何とかするつもりか⁉」
「左様。今、隆信公は東で城攻めの最中であり、こちらに手を回す余裕は無い。だが、有馬の軍勢は砥川を押さえた後、おそらく川を渡り、こちらへ攻め込んでくるはずだ。ゆえに──」
そこで胤忠は腰を下ろすと、家臣に小城南部の絵地図を広げさせる。そして、もう一つの書状を懐から取り出して告げた。
「ここに叩き台は考えておいた。隆信公からも任せると承認を頂いておる。では方々、活発な意見をお願い致しますぞ」
悠然と構え、それまでにやけていた胤忠の表情がきりりと引き締まる。
龍造寺対有馬の緒戦、柳鶴の戦いが始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます