第29話 有馬領国崩壊の始まり(前) 内乱の予兆
「ちょっと、あんた、あんたっ!」
「何だい、気持ちよく寝てんのに……」
「起きておくれよ! 気味の悪いお侍さん達がこっちに向かってくるんだよ!」
「んーどれどれ…… おお! ありゃあ、有馬の殿さんの兵じゃねえか!」
「ええっ、あれが⁉ 泥だらけ、傷だらけで、まるで落ち武者じゃないか⁉」
「まるでじゃなくて、本当に落武者になっちまったんだよ。どうやら御館様は、龍造寺にコテンパンにされ、尻尾を振って逃げ帰って来たって話だ」
「何だいそりゃ、情けないねぇ」
「おめえもこれからは気をつけろよ。治安が悪くなるんじゃねえかって、市井ではもっぱら噂になってるからな」
民家の戸窓から有馬勢の様子をうかがう百姓夫婦は、顔をしかめ、ヒソヒソと噂し合う。
七月末、島原半島の南端近くにある有馬氏の本拠、日野江城へ、有馬勢はようやく戻って来ていた。
城下の民は、その道中を不安気な眼差して見送る。
出陣の際は、多数を率い勇ましく出立していったのに、威勢はどこへ消えたのか。目の前にいたのは、暗い表情のまま足取り重く進む者達ばかり。
逃亡者、落伍者は数知れず。先遣隊を率いた安徳直治は丹坂の戦いで戦死。
他にも老臣を輩出する安徳、安富一族に多数の犠牲者が出ていたのだから、さもありなんである。
その中を義貞は平然と進んでゆく。
戦地に赴く事なく大敗を招き、逃げ帰って来た張本人。なのにその甲冑には汚れ一つ付いてないものだから、目の当たりにした民は、すべからく眉をひそめるしかなかった。
そして、人々は二つの事を懸念していた。
一つが有馬の威勢の衰退により、市井の治安が悪くなるのではないかと言うこと。
もう一つが、有馬勢が大敗したのは、キリスト教保護の政策を取っていたため、仏罰が落ちたのではないかと言う噂である。
これは、宣教師たちを敵視する仏僧達がばら撒いたものだったが、敗戦で萎えた有馬領内の人々には効果てきめんだった。
実際、島原純茂の母などは、息子が戦死したとの報せに接して(※誤報である)怒り狂い、仏僧達と手を組み、領内のキリシタンに対し迫害を始めていたのである。
※ ※ ※
さて、日野江城に入った義貞は、一族家臣達の出迎えを受けると、再会を懐かしむのも程々に、すぐ居間へと向かった。父仙岩へ報告に赴くためである。
義貞の顔面はすっかり蒼白になっていた。
帰郷の最中、彼は敗戦の釈明について、あれこれ頭を悩ませていたものの、決定打に欠けるものばかり。
実のところ、丹坂で戦いを起こしたのは、それまで敗北を重ね、汚名を雪がんと憤っていた島原や安徳、安富らの老臣たちである。
なので彼一人が責任を負う必要はないのだが、だからと言って擦り付ける訳にもいかない。彼らを押さえられなかったのは、総大将たる者の責任なのだから。
さて、何と言って申し開きすればよいのか。ついに上手い口上が浮かばず、義貞は俯いたまま進みゆく。
ところが、その歩みは途中廊下にて跪いていた家臣達に止められた。
「恐れながら、広間にて大殿がお待ちにございます。すぐに足をお運び下さりませ」
「うん? 帰って来たばかりなのだぞ。なぜ父上は広間でお待ちなのだ?」
「それは…… 申し訳ございませぬ。我々の口から申し上げるのは憚られる事なので、ご容赦下さりませ」
苦い表情で家臣達は深々と平伏する。
腑に落ちない所であったが、仕方なく義貞は広間へと向かうのだった。
※ ※ ※
日野江城の広間にいたのは、上座に仙岩、そして下座に数人の家臣達だけであった。そこへ義貞と共にやって来た一族家臣達は、下座の左右に分かれ、序列に従い腰を下ろす。
だが義貞は、俯いたまま上座へと向かおうとはしなかった。
彼はやって来るや否や、下座の中央、仙岩の正面にて平伏する。それが彼なりの誠意の表し方であったのだ。
「ち、父上。こたびの負け戦。面目次第もございません。何とお詫びを申し上げたらよいか……」
「…………」
「そ、そのっ、かくなる上は体制を立て直し、後藤や平井らと示し合わせた上、再び横辺田に兵を差し向け、龍造寺と──」
「横辺田ァ? 何を寝ぼけた事を申しておるのだ? 後藤はすでに龍造寺に降ったぞ」
「何と!」
海路にて戻って来た義貞は知る由も無かった。
義貞が逃亡した後、龍造寺勢が自領武雄の傍まで迫って来たのを知った後藤貴明は、戦勝の使者を遣わし降伏してしまう。
そして、逆に有馬方の潮見城を攻め落とし、周辺を制圧してしまったのだ。
「あと尋ねたい事がある。そなた、平戸の精鋭はどうしたのだ?」
「えっ?」
「松浦隆信直々に率いてきた鉄砲隊五百がいたであろう。その者達をどうしたのか、と聞いておる」
「そ、それは焼き討ちに遭い、逃亡するのに手いっぱいで、とても──」
「たわけ! 奴はいつ反逆するか分からぬ輩だぞ、なぜ目を光らせておかぬ!」
そう言って、仙岩は小さな紙切れを義貞に投げ渡した。
義貞は目を通す。それは物見からの報告であった。
「松浦勢は平戸へ退く際、多久梶峰城に向かい、西郷純堯、島原純茂と対面。両人を伴って平戸に帰郷した」
書面を見て義貞は青ざめていた。
後藤の潮見城攻めにより、後藤に離反する者が相次ぎ、多久梶峰城にいた純堯と純茂は退路を断たれてしまった。
加えて梶峰城の東には、龍造寺の本陣が置かれている。
ゆえに彼らが帰郷するには、伊万里から平戸へ、そこから海路で諫早へと向かうルートしか残っていなかったのだ。
純堯も(松浦)隆信も有馬領国の体制を覆そうと、虎視眈々と狙っている輩である。その二人が出会ってしまった。おそらく交わした会話は、己の悲願達成のため、いつ示し合わせて挙兵するか。いつ領国を内乱に陥れるかというものに違いない。
ならば、いち早く備えないと。
義貞は、おもむろに顔を上げ仙岩を直視する。
だが、その前に気付いてしまった。仙岩が上座の中央に腰を下ろしている事に。
いつもならば仙岩は向かって右側に、左には義貞が着座することになっているのに。それはつまり──
「父上、その、それがしの座る場所は……」
「ようやく気付いたか。そなたの座るところはない」
「えっ……?」
「以後の政事はわしが司る。そなたは隠居し大人しくしておれ」
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