第24話 丹坂の戦い(七) 隆信速攻!
戦の帰趨はもはや決した。
辛くも難を逃れた有馬兵達は、傍に近づかない様にしながら、牛津川沿いの道を北西方面へ進んでゆく。潮水は未だ退いておらず危険なのだが、他に選択肢がなかったのだ。
目指すは多久地方の拠点と言うべき、多久梶峰城である。
だが、純茂は
萎えた気力が彼の歩みを鈍らせてゆく。
しかも、道があるとはいえ、多久は盆地のため、その起伏は小さいくないのだ。この時の純茂の年齢は不明だが、すでに中年から老年の域に達してはずであり、逃避行は心身ともにかなり堪えていたと思われる。
するとそんな中、十数人の供を連れた
「はあ、はあ、もう動けぬ。これ、誰ぞ、水を持っておらぬか!」
苛立ち交じりに周囲の者へ尋ねていたのは、大村純忠であった。
戦前に見せびらかしていた、白地の豪華な陣羽織はすでに脱ぎ捨てられ、甲冑も腰から下は泥だらけ。その重さを纏っての逃走は、小太りの彼には堪えた様で、やって来るや否や、すぐにへたり込んでしまっていた。
しかし、時が惜しい純茂は、心を鬼にして告げねばならない。
「純忠様、申し訳ございませぬが、我らこのまま進みたく存じます。御同行願えませぬか?」
「なっ…… もう動けぬと申したであろうが! そうだ! おい、誰ぞ馬を連れておらんか!」
「おりませぬ。まずは陣内城を目指しますゆえ、動けぬのならば、甲冑をここで手放して下さりませ」
「陣内城⁉ あんな小城で龍造寺の攻勢を防ぐなど──⁉」
と、純忠は声を荒げたが、すぐに押し黙ってしまった。ほかに手段が無いと悟ったのだ。
陣内城とは多久における支城であり、現地の国衆、多久宗利の本拠である。
そして多久梶峰城への道中にあった。ゆえに小城だろうが何だろうが、まずは落ち着ける場所を求めていた彼らにとって、寄らない手は無かったのだ。
彼らは引き続き川沿いの道を進む。
距離にして二里(※約8km弱)程度。すでに日は傾きつつあったが、日没までには余裕で辿り着ける。
傷を手当てし、一息つける場所をようやく得られるのだ。その希望だけが、敗戦で萎えた有馬将兵達の気力を奮い立たせていた。
だが、城に辿り着く直前、先行していた家臣からの報せが、彼らの希望を打ち砕いていた。
「一大事にございます。陣内城はすでに龍造寺の旗が翻っております!」
「何だと!」
あり得ない。この目で見るまでは信じるものか。
家臣の言葉を受け入れられず、純茂はすぐに駆け出してゆく。
城に残っていた者達が、龍造寺に寝返ったのならまだ分かる。だが、龍造寺の旗が翻っているなどあり得ない。彼らは未だ丹坂方面に残っているのだから。
そう、いるはずが無いのだ、龍造寺兵など。ましてや、隆信本人など──
「待ちくたびれたぞ、純茂ェ! その首、この山城守隆信が貰い受ける!」
その
まさか城からお出迎え、否、討って出て来た軍勢の中心に、敵総大将がどんと構えているとは。
そして、耳をつんざいてきたのは地を揺るがす喊声と、空に轟く陣鐘と法螺貝。
度重なる苦闘と逃亡を繰り返し、疲労から思考停止に陥っていた純茂は、もはや苦笑いを浮かべ立ち尽くすしかない。
すぐに両脇を家臣達に抱えられ、隘路へと逃れていったのだった。
※ ※ ※
確かに隆信は丹坂山の北麓近くに残っていた。
そこで彼は有馬勢の敗走を見届けた後、すぐに軍勢を率い西へ動き始める。
供をするのは精鋭五百と、鍋島信昌、小河信友(信昌弟)、百武兼道(※後の賢兼 龍造寺四天王の一人)の若き武将三人。先回りして有馬勢の退路を塞ぎにかかったのだ。
まず、有馬勢に気取られない様に大きく北上し、丹坂山より半里(約2km弱)ほど北にある一本松峠を西へ越える。
そこから山沿いの道を一気に西進し、陣内城の北西付近まで進出。多久梶峰城へ通じる道を封鎖した後、軍を返して城を背後から襲撃したのだ。
当時、城主である多久宗利は、有馬勢に加わって参戦しており城を空けていた。そのため城は難なく陥落してしまったのである。
有馬勢はこの戦で思い知っただろう。人生には上り坂、下り坂、そしてまさかの三つがある事を。
まさに進むも地獄、退くも地獄である。襲い掛かってくる龍造寺勢に、またしても壊乱状態に陥った彼らは、蜘蛛の子を散らすかの様に四方へと逃げ出してゆく。
しかし──
「殿ぉ、ここでしたら大丈夫ですぞ! さあ、お早く!」
有馬勢にはまだ救いの道があった。
陣内城のそばまで来た彼らは、牛津川の上流に達しており、ようやく渡河出来たのである。
そして、対岸へと移ると、再び川沿いの道を西へ進むことが出来た。
だが、もう誰が落伍したのか振り返る余裕はない。実際、この時にはすでに大村純忠が
替わりに、彼らの口から付いて出てきたのは、またしても絶叫──
「て、敵じゃああ! この先に龍造寺の兵が── がはっ……!」
先行していた有馬兵が、突如背中に数本の矢を喰らい斃れ落ちる。
矢の飛来してきた方角を見ると、山の斜面から射かける弓兵の姿。そして、前方からは鬨の声と共に兵が押し寄せる。
有馬兵は今日何度度肝を抜かれたのだろう。そこには、またしても先回りして、道を封鎖していた龍造寺勢の姿があったのだ。
多久を重視していた有馬は、多久梶峰城に代官を進駐させていた。
ゆえに、彼らが現地の百姓達を動員し、助勢に駆けつけて来るかもしれなかったのだが、龍造寺勢は周到だった。
刃向かって来た現地の村長及び百姓達を、あらかじめ殺害した上で、有馬残党を待ち構えていたのである。
なので、その場はもうまともな戦とはならなかった。
健気に立ち向かう者は僅か。投降する者、南の山々へと逃げ登ってゆく者は後を絶たず。
それでも純茂は懸命に槍を振るった結果、辛くも虎口を脱し、僅かな将兵と共に落ち延びていったのだった。
※ ※ ※
やがて夜の帳が下りる頃、純茂と有馬兵達は隘路を抜け、ようやく広い平野部へと出ていた。
「はあ、はあ…… どこなのだ、ここは?」
純茂も従う将兵も周囲を見渡すが、土地勘がない彼らは首を傾げるしかない。
分かっていたのは周囲に民家が窺えないこと。ゆえに獣の類に襲われるかもしれず、これ以上暗闇の中を進むのは危険であろう。
純茂はそう判断し、近くの樹々の下で野宿することにした。その直後だった。
「あ、ああああっ!」
突然、彼は素っ頓狂な声を上げて飛び起きる。視界の先に複数の松明と思しき灯りが見えたのだ。
それは少しずつ自分達の方へ迫って来る。甲冑の金具が擦れる音と馬の嘶きを響かせながら。
極度の疲労から寝落ちしていたため、純茂は逃げ出す事も、戦う体勢も取る事ができず、顔面蒼白のまま相対する事になってしまったのだ。
そして──
「がはははっ、無様、無様ァ! おい、お前ら、この無能を嗤ってやれ!」
一隊の大将と思しき者の嘲りが夜空に響き渡る。
やがて純茂は一隊に取り囲まれると、その大将にいきなり胸倉を掴まれていた。
しかし彼は抵抗しようとしない。する気力すら湧いてこない。
そして思わず頭を
不意の風を受けて松明の灯りがゆらめく。
その灯りの下、純茂の双眸には、目を剥いて不敵に笑う西郷純堯の姿が映っていた。
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