第3話 龍造寺家の憂鬱(前)

 大百姓以下は、草木のなびき、時分を見計らう者にて候


 百姓達の日和見ぶりに警戒心を抱いていた、織田信長の言葉である。


 戦国時代には、日本各地において多数の大名や国衆が割拠していたが、その分だけ領地間における境目(所領の境界)が存在した。

 そして、境目付近にて暮らす百姓達は、面子を重んじる武士とは違う、彼らなりの哲学を持っていたのだ。


 領主達の権力争いから距離を置き、中立的な立場を維持しつつも、いざ戦となると強い方に走る。

 こうした判断を徹底する事により、村落の平和や己の生命財産を守ろうとしたのである。

 


 しかし、永禄六年(1563)六月初旬の起きた、砥川とがわ百姓達による有馬離反と、龍造寺への寝返りは、その哲学とは異にする行為であった。


 この時、肥前の在地領主で、最も威勢を誇っていたのは有馬である。

 西肥前四郡を傘下に収め、多くの周辺国衆達とよしみを結んでおり、動員できる兵は二万に上っていた。

 東肥前の国衆達の中から、頭一つ抜きん出た程度の新興勢力、龍造寺とは比べるべくもない。


 なので、何はともあれ有馬に従っておけば安心安全なのだ。

 にもかかららずの離反である。原因となった徭役が、どれほど過酷であったかのかは想像に難くないだろう。 



 とは言え、この事件は龍造寺にとっても、頭を悩ますものであった。


 一見願ってもない話に思えるが、傘下に加えるとは、庇護しなければならないと言う事である。

 砥川は、両勢力の境目を成していた牛津川の向こうにあった。

 そのため、寝返ったとしても孤立した格好になってしまい、もし有馬との戦が勃発した場合、守り切るのは容易ではない。


 彼らを傘下に迎え入れるか否か、その決断は簡単に下せるものではなかったのだ。



※ ※ ※ 



「全く、何を考えておられるのか……」


 寝返りの一件から数か月前のこと。

 砥川があった杵島きしま郡の東隣に、小城おぎという郡があった。

 その南部にそびえる、牛尾うしのおという山において、数人の家臣を引き連れた青年が、やや不貞腐れた顔で頂きを目指していた。


 牛尾山は龍造寺、有馬の境目を成す牛津川から、東へ直線距離で1キロ未満の所にある、標高八十メートルの小さな山である。


 現在では山の一部に広がる梅林が有名で、二月下旬から三月にかけて見頃を迎え、花見客で賑わうと言う。

 ただそれは江戸時代の末頃からの話である。戦国時代においては、山の多くが雑木に覆われたままで、梅の木など僅かしかなかった。



「長信様、西を御覧下さりませ」

「おおっ、何と壮大な……!」


 山道を登ってゆく途中、先行していた家臣に促され、長信と呼ばれた青年は西へと視線を移す。そこには広大な景色が広がっていた。


 眼下に見えるのは牛津川である。その流路は、特に下流域において蛇の如くうねっており、周辺の田畑を大いに潤している様子が窺える。

 そして奥には、杵島郡の広大な平野部である、横辺田よこべたという地域が見て取れた。


 さらに一行は、山頂付近の眺望の利く斜面へと向かう。

 そこから南を望むと、空の青さと薄雲に遮られながらも、朧げに佇む島原半島をうかがう事ができ、長信は思わず立ち尽くすのだった。

 


 龍造寺兵庫頭長信。

 龍造寺隆信の九つ下の弟で、主に兵站や普請などの裏方支援に長け、隆信の治政を支えた右腕と言うべき人物である。


 その性格は温厚篤実……なのだが、今は違った。斜面の向こうに、苛立ちの原因を作った人物を見つけたのだ。


 その人物は、一本の梅の木の下で佇んでいる。

 もみあげまで繋がった立派なあご髭、そして、直垂ひたたれの上からでもはっきりと分かる、たくましい上腕が見て取れる。まさに豪胆、豪放などの表現が相応しい大男であった。


 梅の花をぼんやり眺めるなど、とても性に合っているとは思えない。

 すると想像していたとおりだった。男の手に盃が握られているのを見つけた長信は、顔を一層しかめて近づいてゆく。


「……探しましたぞ、兄上」

「おう来たか、長信。遅かったではないか」


「全く、一族の惣領が、朝、不意に家臣達と共に姿をくらますなど、危険極まりない事にござる! 今後はひらに謹んで──」

「騒ぐな。行先は残っていた家臣に伝えておいたではないか。よし、そなたも吞め」


 長信の兄──山城守隆信は野太い声でそう誘うと、漆塗りの盃に注がれた酒をぐいと飲み干す。そして、心地良さ気にふうと一息ついてみせた。

 忠告など意に介せず、まるで自分の館でくつろいでいるかの様である。長信は唖然として詰め寄ってゆく。


「分かっておられるのですか、ここは牛尾別当(※1)の領内なのですぞ! いくら味方とはいえ、のこのこやって来て踏み入ったら──」

「だから騒ぐな。許しは得てある。今日一時だけ居座らせよとな。咲き始めの梅の木の下、そなたも景色を楽しむがいい」


 と、隆信は告げると、近くでひざまずいていた山伏二人を指差した。

 我らは牛尾別当坊の者である。二人からそう紹介を受けたものの、長信は憮然としたまま。龍造寺の家臣から盃を受け取り、酒を注がれるが口を付けようとしない。


「やはりそういう魂胆でしたか。宜しいですか兄上、しばらく平穏だったとは言え、御命を狙う不埒者がどこに潜んでいるか──」

「真に受けるな。冗談だ」

「えっ?」


 すると隆信は、懐から一通の書状を取り出し、ちらりと見せた。

 長信は咄嗟に「あっ」と声を上げる。それは長信を取次として、龍造寺に寝返りを申し入れてきた、砥川の乙名達からのものであった。




※1 牛尾別当坊(佐賀県小城市小城町池上)

平安時代に開かれた修験道の拠点。箱根、熊野、鞍馬山と並んで四大別当坊と呼ばれる。当時、屈強な山伏が多くいたという。

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