第27話 百合野の戦い(三) 後日栄光の伏線  

「よし、このまま行くぞ一遊軒! 夜明けは近い!」

「隊を率いるのはそれがしにござる! いくら御曹司とは言えども、御指図は無用に願いたい!」


 多久の山中を南下していた一遊軒と信昌は、百合野にて有馬残党を打ち破ると、更に南下。いがみ合いながらも、堤尾岳を目指し行軍を続けていた。


 戦いを終えたばかりたが、二人に休む暇はない。

 すでに夜が白み始めており、百合野にいた有馬残党の一部は、おそらく堤尾岳に向かって逃げたはず。自分達が迫っている事を知られてはまずいのだ。迅速の二文字を心に留め、彼らは険しい山道を駆け上ってゆく。


 そして見晴らしの良い所までやってきた。

 堤尾岳の北側に位置する高地。そこから有馬勢がたむろしている広場の様子を窺ったが、二人共すぐに安堵の息を漏らしていた。敵は未だに静まり返ったままだったのだ。


「野郎ども! 目に物を見せてやれ!」


 一遊軒の号令一下、兵達は喊声を上げどっと斬り込んでゆく。

 夜通しで戦い続け、半端のない疲労感が残っていたが、これが締めの戦いなのだ。皆あらん限りの気炎を上げ、存分に白刃を振るう。


 対して、有馬残党は陣を構えておらず、ただ木の下などに固まって屯しているだけ。兵は多数であったが、率いる有力な将もいない。まさに烏合の衆であった。


「報告! 堤尾岳より鬨の声が響いております!」 

「やりおったか、一遊軒! よし、我らも動くぞ!」


 すかさず宿老、納富信景率いる龍造寺本隊が南より攻め上ってゆく。

 もし有馬義貞が丹坂での敗北を知って、堤尾岳まで出張っていたのなら、敗残兵を接収して態勢を立て直せていたはず。形勢がそれ以上覆る事はなかっただろう。


 しかし、この時すでに義貞は本陣を引き払い、横辺田西部へと移っていた。

 事実上見捨てられた将兵達が、奮起するはずが無かったのだ。


 やがて東の空に太陽がはっきり姿を見せる。

 その日差しが照り付ける中、堤尾岳では龍造寺将兵達の勝鬨が高らかに響き渡っていた。


 それは同時に、杵島郡東部が有馬の勢力下から離れたと言うこと。

 戦いの端緒となった砥川の地も解放され、隆信はついに百姓達との約束を果たしたのであった。



※ ※ ※ 



 戦後、搦手として奇襲に及び、作戦の成功に導いた一遊軒の名は近隣に轟いた。

 隆信は彼の功を賞し、家臣数人と家中の歴戦の武士達を、彼の与力として組み入れている。そして、以後戦があれば一軍を任せ、先陣の将として抜擢したのであった。


 しかし、長い目で見た場合、この戦いで最も恩恵を受けたのは、経験と言う財産を獲得した鍋島信昌であった。

 

 百合野の戦いから七年後、元亀元年(1570)八月十九日──

 夜回りしていた信昌は、陣夫として来ていた小城の百姓達の話声を耳にしていた。


「なぜ隆信公は夜討ちをされないのだ。敵は背後の谷、山の険阻を頼みにして陣を張っている。加えて、その前方には諸勢が陣を並べ、佐嘉城から遠い事もあり油断しているのだ。地元の者に山を案内をさせ、敵本陣を背後から夜襲すればよいではないか」


 その言葉を聞き、信昌ははっとなった。

 思い出したのだ。今の自分達が置かれた戦況は、かつての百合野の戦いの頃とそっくりであると。


 百合野の戦いでは、一遊軒が地元の者達を徴募して夜襲を敢行した。

 今求められているのは、敵陣が置かれていた小城の山々に詳しい者達である。

 そして、彼らと繋がりが深いのは、龍造寺家中にあっては自分だけ。信昌はすぐに隆信や宿老達の前に進み出て、直訴に及んだのである。


「どうか、それがしに許可を下さりませ! 小城の者達と力を合わせ、敵陣に夜襲を仕掛け、一か八かの勝負を決してみせまする!」


 軍議の末、隆信や諸将の同意を得た信昌は、わずか十七騎で城を後にする。

 そして途中、小城の地侍や山伏の協力を得て、敵陣のあった山を登ってゆく。従う者達は八百にまで達していた。


 やがて迎えた翌二十日、卯の刻(午前六時ごろ)──

 陣鐘や法螺貝を鳴り響かせ、彼は敵総大将のいた陣に襲い掛かったのだ。


武者などに目を掛けるな! 大将を狙え!」

 

 下知を飛ばし、自らも槍を振るい迫ってゆく。 

 不意を突かれた敵勢はたちまち崩れ、一部に同士討ちする者も生まれる始末。やがて我先に東の平野を目指し逃走してゆく。


 そして、納富信景率いる龍造寺勢が、挟撃するべく山の麓から押し寄せる。

 戦術は堤尾岳攻略の焼き写しといえた。ゆえに、龍造寺将兵は鮮明に覚えており、容易く行動に移す事が出来たのだ。やがて──


「敵総大将、大友親貞は成松信勝が討ち取った!」


 信昌と共に軍勢に加わっていた、龍造寺家臣、成松信勝の音声が高らかに響き渡る。敵本陣にいた者達は総崩れとなり敗走。戦死者は二千余りに達していた。


 これが世に言う今山の戦いである。

 信昌は龍造寺討伐に赴いていた大友勢六万の度肝を抜き、その名は一躍、肥前を越え九州全土へと響き渡ったのであった。


 戦いは確かに信昌自身が立案し、実行に移したものである。

 だが、それは彼の独創ではなかった。無論、百姓達の話を耳にしたからこそとも言える。

 そして何より、百合野の戦いという経験なくして、この大功は成し得なかったのだ。 

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