第12話 柳鶴の戦い(四) 境目動乱
「はあ、はあ……」
本陣が置かれた堤尾岳に、島原兵部少輔とその配下の者達が、やっとの思いで戻って来たのは、柳鶴で惨敗してから二日後の事であった。
戦後、鴨打勢から逃げに逃げ、彼らが辿り着いたのは、川から北に逸れた大戸ヶ里(小城市牛津町)という所である。
ただ、そこは狼煙が上がっていた、牛尾山のすぐ南であった。
当然、龍造寺に味方する地侍の襲撃や、百姓達の落ち武者狩りに遭う恐れがある。
そこで、彼は夜闇に紛れ、草木に身を隠すなどして人目を避けつつ、こっそりと戻って来たのだった。
面目は言うまでもなく丸潰れである。
するなと命じられていたのにもかかわらず、武功と狼藉に目がくらんで出撃した結果、無残な敗北を喫したのだ。
しかも、有馬にとっては龍造寺ですら格下なのに、今回の相手はその傘下の地侍連合。どこの誰が彼らに同情するというのだろうか。
島原兵部はげっそりした様子で本陣に辿り着く。
足に傷を負い、木の枝を杖替わりとして進む姿は、まるで腰の曲がった古老の如し。すぐに本陣にいた兵達に介護され、陣屋へと向かおうとする。
するとそこへ、一足先に帰陣していた安徳直治が、数人の供を連れ駆け寄って来る。彼がもたらした報せは、島原兵部の傷心に追い打ちを掛けるものだった。
「兵部、一大事だ。前田志摩守が龍造寺に寝返りおった」
「えっ⁉」
前田志摩守とは、杵島郡
報せによると、彼は龍造寺の調略を受けて、佐留志にあった有馬の代官所を襲撃。そこの長である代官、高場新左衛門を討ち取って、寝返りを鮮明にしたと言う。
島原兵部の視線は虚空を彷徨っていた。
佐留志は、有馬本陣の置かれていた堤尾岳の南東すぐの所にある。
そして、代官所は現地を統括するべく置かれた、有馬方の拠点であった。
つまり、志摩守は有馬の軍勢が居座る前で、堂々とその拠点を襲い、龍造寺に寝返るという、大いにナメた行為に走ったのだ。
「それだけではない」
「…………」
「
「ば、馬鹿な! それはつまり──」
「そうだ。砥川の百姓共、降伏したと見せかけて再び砦に籠りおった。おそらく、この時を狙っておったのだ」
柳鶴の戦いの勝因として、馬渡、鴨打、徳島ら地侍達の奮戦があったのは言うまでもない。
だが、その背後で龍造寺も、せっせと百姓や地侍達を調略していた。先遣隊将兵は皆、彼らの掌の上で転がされていたのだ。
島原兵部はたちまち両膝をついて崩れ落ちる。
そして、すがる様な目つきで顔を上げ、直治に訴えかけたのだが──
「す、すぐに兵を……」
「ああ?」
「すぐに兵を差し向けねば! 百姓どもと、前田と、
「止めておけ。もはや我らでは境目の寝返りを止められん。御館様率いる本隊にお出ましいただくしかあるまい」
「クソがああああァ‼」
兵部は絶叫すると、杖をぶん投げてうつ伏せてしまった。
その憤懣冷めやらぬ表情を案じ、彼の側近達は慌てて駆け寄って来る。そして、兵部の両脇を抱えると、手当てするべく陣屋の中へと運び込んでいった。
だが、後悔してももう遅い。その場には叫び声を聞き、多くの兵が集まって来たものの、見通しの立たない先の情勢を不安に思い、皆立ち尽くす他無かったのだった。
※ ※ ※
こうして柳鶴の戦いは終わりを迎えた。
戦後、隆信は地侍達の戦果に喜び、恩賞を施している。
鴨打胤忠には八十町、佐留志の前田志摩守には、新田六十町と砥川に五町を与えた。
そして、他の地侍達の武功にも報い、以後、家臣として受け入れていったのである。さらに──
「馬渡兵部少輔俊光、恩賞として百町、加えて能登守の名乗りと「信」の一字を許す。
「ははっ!」
馬渡俊光改め信光もこの戦が人生の転機となった。
館にやって来て報告する龍造寺の使者に対し、喜んだ彼はうやうやしく平伏する。
そして、御礼を述べるべく、すぐにでも拝謁に赴きたいと願い出たのだが、その意向に使者は首を振った。
「殿は予定どおり城攻めを終えられ、まもなく佐嘉に戻られる。御礼であればその時でも宜しかろう」
「予定どおり……? では、有馬が侵攻してきたにもかかわらず、東で城攻めを続けておられたのは、当初からの計画であったと?」
「左様。砥川の百姓達の寝返りを受け入れた際に、城攻めを利用しようと思いつかれたのだ。今、我らは東にいるから援軍を送れず、小城郡は手薄である。そう有馬に思わせて侵攻を促そうとな」
「な、成程……!」
信光は感嘆の息を漏らしていた。
六月二十六日、隆信は中野城主、馬場鑑周と起請文を交わし、事実上の降伏に追い込む。そして軍を反転させ、佐嘉へと引き返したのだった。
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