第22話 丹坂の戦い(五) 暴れ龍
「者共、押せっ、押し返せっ!」
『ぅおおおおおっ‼』
隆信が密かに動き出した頃、主戦場である東の草むらでは、龍造寺伏兵三千に加え、千葉、龍造寺先陣(小田勢)、そして小城の地侍達の喊声が天に轟いていた。
餌兵による釣り出しからの、野伏りと包囲殲滅。
その痛烈な一撃を有馬勢に喰らわせた後、彼らは追撃を続け、合戦の始まりの地、山崎まで押し返してきたのである。
まさに歴史の転換点──
攻守の立場が、威勢の優劣が、肥前の情勢が、それら全てが覆ろうとしていた。
※ ※ ※
一方、前線で奮闘していた島原兵部は、やっとの思いで味方に追いついていた。
彼の変わり果てた姿に、一瞥した味方は思わずたじろぐ。
まとっていた甲冑は、血と泥にまみれた上に傷だらけ。目が据わったまま、唸りながら歩く様は狂人の如し。敵勢の中に置きざりにされたにもかかわらず生き残った、その爪痕を深く刻み込んでいた。
一息つきたいところだが、そんな暇は無い。背後から龍造寺勢の餌食となった者達の絶叫が、未だに耳をつんざいて来ていたからである。
逆に、味方からは「旗差を捨てて逃げるぞ、お前ら」と、逃走を煽る者の声が漏れ聞こえて来る。
思わず募るは、斬り捨ててやりたいという衝動。だが、すでに息が上がっていた彼にそんな心の余裕はなく、声のした方を睨みつけるのが精一杯だった。
しかし──
「み、南からも敵が来るぞ!」
と、騒ぐ者だけは見逃せなかった。
裏切り者か敵の間者か、どちらにせよ明らかな流言。放っておけば動揺はさらに広がり、軍の潰走に繋がりかねない。兵部は味方を押し退け、声のした方へと迫ってゆく。
だが、騒いでいる兵が指差した光景を見て、彼は咄嗟に血相を変えていた。
「おおっ、ば、馬鹿な!」
兵部の双眸に映っていたのは、押し寄せて来る数多の僧兵の姿だった。
続々と山から下ると、喊声を揚げ、統制不能に陥った有馬勢の背後に襲い掛かる。
ヒョロガリの百姓とは違う。上腕の逞しさを見せつけるかの様に、皆長柄の得物を軽々と振り回して圧倒してゆく。
まさに武士に劣らぬ戦ぶり。有馬勢の誰が立ちはだかると言うのか。
肥前で広く知られていた修験道の拠点、牛尾別当坊の僧兵達が、龍造寺に
加えて、僧兵達が下ってきた山に視線を移すと、頂きから真っすぐ黒煙が立ち昇っている。
兵部は咄嗟に思い出した。柳鶴の戦いの折、馬渡俊光の使者として道案内をしていた野田右近の言葉を──
「あれは牛尾山にございます。四方に眺望が利き、小城の各地が見渡せまする」
兵部の拳はわなわなと震えていた。
余りにも時機が良すぎると思っていたのだ。草むらから湧き出てきた龍造寺の伏兵も、餌兵を演じていた千葉、小城の地侍達の反転も、味方の背後を狙った牛尾別当坊の攻勢も。
だが、ようやく合点がいった。そこには牛尾山の存在があった。
山にいた僧兵達が、龍造寺の目としての機能を果たしており、有馬勢の動向は丸見えだったのだ。
「も、申し上げます! 松瀬周防守様、御討死!」
松瀬周防守は有馬勢の道案内、そして先陣を務めていた牛津川付近の地侍である。
もはやこれまで──混乱から潰走へと変わってゆく有馬勢に混じり、島原兵部は再び方々の体で逃げ出していったのだった。
※ ※ ※
一方、後方にて指揮を執っていた島原兵部の父純茂は、味方総崩れの一報を聞き唇を噛んでいた。
戦況を覆そうと後詰を含め、あらゆる兵は前線に投入済み。
だが実を結ぶことなく、味方は続々と逃げ帰って来るばかり。戦死者もすでに三百を超えていた。
これ以上、どの様にして劣勢を覆せばよいと言うのか。
そして、彼は義貞から指揮を任されていた、実質的な大将である。討死する訳にはいかず、一足先に戦場を離脱しようと決意していた。
「さあ、殿こちらへ。お急ぎ下さりませ」
「うむ」
家臣が連れて来た馬に跨り、純茂はすぐに山崎の地を後にする。
龍造寺如き格下国衆に、散々な目に遭ったのは屈辱だが、命あっての物種というもの。ここは朝通った浅瀬を渡り、百合岳まで戻るべきである。
川は境目の役割を果たす事が多く、流石に龍造寺も牛津川を渡って、百合岳を制圧しに来る事は無いだろう。彼はそう判断していたのだ。
ところが、猛然と迫って来る敵の姿を目の当たりにし、彼は慌てて判断を翻す。
恐怖に駆られ向かった先は、牛津川ではなく、いち早く危難を避けられる北の方角、丹坂山の西麓だったのだ。
しかし──
「よし! 今だ、放てっ!」
丹坂山の茂みから、突如号令が轟き、そして鏑矢が飛来してくる。
逃げる事ばかりに注力していた有馬将兵達が、気付くはずもない。
先頭を走っていた者達がたちまち矢を喰らい、苦悶の色を浮かべ膝をついてゆく。
そして、茂みからどっと押し出してくる伏兵達。
彼らの旗差物を見て、龍造寺勢だと気づいた時にはすでに遅かった。純茂たちの動きは読まれ、待ち伏せされていたのだ。
「ええい、振り払って進め! 敵は小勢ぞ!」
声を荒げ、純茂自らも槍を振るう。
戦前であれば、確かに数を頼みに押し通ることは造作もなかっただろう。
しかし、すでに浮き足立ってしまった兵達では、押し通るのは至難であった。伏兵と追撃してきた龍造寺勢により、たちまち挟撃される形となってしまい、またしても有馬勢は混乱の坩堝に陥ってゆく。
この挟撃は、隆信があらかじめ計画していたものだった。
彼は、東の草むらに伏せていた軍勢三千、自ら率いていた五百とは別に、もう一つの軍勢を用意していた。
それを丹坂山の東麓から、山中の峠道を通って西麓へと向かわせ、待ち伏せさせていたのである。
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