第78話 栞奈の様子

 紫苑は境内を掃除していた手を止め箒を片付けると、社務所脇の戸を開いて家に入った。


「坊っちゃま!」


 廊下をまっすぐとたゑが歩いてくる。この威勢で今年で八十とは信じられない。


「お、たゑ」

「何を飄々と突っ立っているのです! 戸を開くときには巫女か使用人を呼びなさいと何度申せばお分かりになるのですか!?」

「たぶん……何度言われても分からないね」

「はぁ、全く……。旦那様とよく似ておられる」

「父さんと?」

「ええ、そうですよ。あの方もしょっちゅう私に怒鳴られておられましたから」

「じゃあ、父さんと同じということで……」

「ダメです!」

「なんで?」

「あの方は一応ご自身のお立場を弁えていらっしゃいましたから。坊っちゃまはそうではありません。人を使うことがお嫌いでしょう?」

「まぁ、僕は自分が動きたい人間だからね」

「この神社の建立された当時から、神主はここの地主が、神話誕生の頃からは魔物を討伐した英雄の子孫がここを管理してきました。あなたはその末裔です。一番上に立ち、他人を従え、動かすことも少し学んでいってくださらなければなりません」

「……僕には厳しいな」

「分かっております。特に今までとはお坊ちゃまは周辺が異なるのですから」

「……?」

「今までは羽澄家にお生まれになった方々は結婚なさっても、基本この家から出られませんでした。しかし今は咲来お嬢様はカナダへ、柚希お嬢様はオーストラリアへ……海外に出られて活躍されています。お坊ちゃまもあまりこの神社での立場を意識されていないようですが、あなたは次の神主です。自分のお立場を改めてお考えください」

「……分かった」







 たゑには家族の誰も敵わない。家族全員生まれたときからたゑには弱みをがっちりと握られている。


 紫苑の弱みは……ピーマンが苦手なことくらいだ。紫苑の夕食にはピーマンが少し細かく切られて入っている。


 それでも立場と言うものは嫌でも実感する。神主養成校へと通っていても『羽澄神社の羽澄紫苑』と聞いただけで道を譲られるほどだ。

 特にあの噂が紫苑を特別な存在へと押し上げていると紫苑は考えている。

 それに加え、柚希や栞奈といった世界で活躍した選手が家族であるのも大きい。

 スポーツの神を奉る神社で世界一の娘がいるとなれば信憑性も増してくるのは当然なのかもしれない。


「それで……通してくれないか?」

「次からちゃんとしてくださいますか?」

「……善処する」

「それなら、どうぞ」

「ありがと」


 紫苑は第一関門を無事突破すると、まっすぐにそのまま栞奈のもとへ向かう。

 栞奈は自室の窓辺に置かれたベッドに寝転んでいた。紫苑が部屋に入ったことに気付き身体を起こす。


「栞奈……体調どう?」

「今はだいぶ落ち着いているわ」

「そうか」

「あまり不安がらなくて大丈夫よ」

「病院行かなくていいのか?」

「そうね。柚希が帰ってくるまでには直したいし、しばらくしても直らないようだったら素直に病院行く」

「……わかった」


 栞奈はここしばらく体調が優れない。微熱が続いている。


 柚希がまもなく帰国してくるなか、少し無理をしたのかもしれない。

 栞奈は何か思い当たる節があるようであまり心配していない様子だが、紫苑はやはり心配である。


「ねぇ、紫苑」

「ん?」

「柚希ちゃんと丞くん、離れてて辛くないのかな?」

「……どうした急に」

「いや、なんかそう思ってさ。私なんかは束縛強い自覚あるから紫苑が境内で女性に囲まれるの見るだけで眉潜めちゃうし、一緒に暮らしたいから選手引退したでしょ?」

「まぁ、そうだね」

「だけど、柚希ちゃんたちはこれからも選手とコーチ続けるって言うし……柚希ちゃんが引退したらコーチ辞めるみたいだけど、それでも結局は結婚しても今のまま長距離恋愛になるでしょ? それでも結婚できるってすごい勇気だと思う」

「そう?」

「紫苑は思わない? 大好きな相手がどうしてるのか分からないまま過ごさなくちゃいけないじゃん。顔も見えないし、悪い虫が寄ってきてることを確認できない」

「悪い虫って」

「だから、例えば柚希ちゃんからしたら丞くんは女性がたくさんいるスケート教室でコーチをしてるじゃん? 例え結婚するって公表したとしても丞くんのことを好きな人って多いと思うんだよね」

「栞奈、大丈夫だよ」

「何で言いきれるの?」

「だって今まであの二人何年離れてると思ってんの? それでも二人は想い合ってた。寂しいけどそれを力に変えて……次にあったときに丞くんに誉めてもらえるように柚希は頑張ってたよ。丞くんに初めて会ったときに約束したことを叶えるために必死だった」

「約束?」

「うん。何があっても守りたいってそんなふうに僕には見えてたよ。僕もどんな内容なのかは聞いてないけど」

「柚希ちゃんは強いからなぁ」

「丞くんだって強いよ。だから二人は会わなくても大丈夫なんだと思う。それよりももっと深い絆で結び付いているから」


 栞奈が笑う。

 紫苑が知らない柚希を栞奈は見ている。家族だとしても柚希が試合にいっている間は紫苑はファンなのだ。テレビ越しの柚希しか知らない。

 それに比べて栞奈は試合での柚希を知っている。

 それが紫苑には少し羨ましかったりもする。


「とりあえず柚希が帰ってくる前に体調戻そうな」

「うん。丞くんも来るんでしょ?」

「二人で父さんと母さんに挨拶したいって言ってた」

「付き合ってたのに一度も来てなかったんだね」

「うん。二人とも選手だったから忙しくて……僕も初めて丞くんに会えたのは栞奈と同じときだよ」

「そうなの!?」

「うん」

「知らなかった」


 柚希がいなかったならば紫苑が丞に会うことはできなかった。

 栞奈とも巡り会えなかった。

 紫苑はあのとき柚希の家を訪ねたことを一種の奇跡だと思っている。









「私、柚希のこと最初嫌いだったから」


 栞奈の唐突な言葉に紫苑は思わず瞬きする。


「どうした?」

「それでも柚希ちゃんは私に話しかけてくれてた」

「……」

「この前、丞くんのところに行ったでしょ? そのときに凌久くんに言われたんだ。柚希ちゃんの周りには話しかけなくても人が集まって来るから、自分から話しかけることはあまりないって。それなのに、私にだけはすごい話しかけてて驚いたって言ってた」

「そうなの?」

「ええ。私には本当に嫌になるくらいに話しかけてくるの。うざかったわ」

「そもそも仲悪かったんだ」

「あ、知らなかった? 最初私が勝手に嫌ってたんだよね。それまで絶対に誰にも負けないって思ってた。それなのに彗星のように出てきた柚希が許せなかったのよね。今思えば私は本当に馬鹿だった」


 栞奈は窓の外を眺めている。

 紫苑には栞奈の自嘲的な口ぶりと、過去を見つめているような瞳をじっと見つめていた。


 〖ねぇ、柚希ちゃん。柚希ちゃんはこんな私を許してくれますか? 今でも表面上は仲良くしてくれてるだけで嫌いですか?〗


 栞奈の【声】が聞こえてくる。


「柚希は栞奈のこと好きだよ。好きじゃないやつに近付く人間じゃない」


 思わず紫苑は口にする。栞奈が驚いたように紫苑の顔を眺める。


 〖あれ……今私思ってたこと口にしちゃってた??〗


 栞奈の疑問が【声】を通じて流れてくる。

 紫苑はそっと息を吐いた。どうやら気が付かなかったらしい。


「今は柚希のことどう思ってるの?」

「大切な友だちでライバルで家族、かな?」


 紫苑は微笑んだ。


 柚希が帰ってくるのは一週間後だ。あと何日かで今シーズンのオーストラリアでの練習を終えるはずだ。

 荷物を片付け、帰国して関係者に挨拶をしたら柚希はここにやって来る。

 柚希にとって初めて本当の意味での我が家が羽澄神社となった。


(柚希が帰ってきたら誰よりも早く『おかえり』って伝えよう……)


 紫苑はそう思っていた。

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