第18話 再会

 丞との約束の日が来た。

 柚希は練習用の義足を使いこなせるようになっていた。

 今では階段などを歩くこともできている。


 約束の時間まであと二時間もあるのに柚希は落ち着けなかった。


 丞は一年前のオリンピックで金メダルを獲得したあと、世界選手権でも王者になって、正真正銘世界王者として今シーズンを戦う。

 柚希は今年の夏、あの事故からちょうど一年後にオーストラリアでスキーを始めることにした。もう既に飛行機のチケットや面会予約もとってある。



 準備をしているうちに(準備をしたのはほぼ咲来と母だが)、凌久がやってくる。


「柚希、入っていいか?」

「いいよ」


 凌久が部屋に入ってくる。柚希が驚いたのは凌久が「いいよ」と言う言葉を聞いてから入ってきたことだ。


「どういう風の吹きまわし?」


 ベッドに二人で腰掛けて開口一番柚希が尋ねたら、凌久は渋い顔になる。


「いや…………義母さんがな、日本人としての礼儀とマナーくらいは覚えなさいっていろいろ教えてくれて」

「義母さん? ……あ、」


 今の凌久にとって義母さんとはお父さんの再婚相手のことだ。「義母さん」と呼べる関係になれていることが嬉しい。


「お互い野球好きだから一緒に応援したりもしているんだぜ」

「へえ、仲良さそうだね」

「まぁ、いろいろ良くしてもらってる。あと、すごいおもしろい」

「凌久、辛い思いしてない?」

「ああ」



 しばらくして下の階のインターフォンがなる。お手伝いさんが話す声が聞こえる。


「柚希さん、九条さんがお越しですよ」


 お手伝いさんの声が聞こえ、柚希が「どうぞ」と言うとそっとドアが開いた。


 そこには、あのときからずっと会いたかったあの笑顔が待っていた。


「柚希ちゃん、久しぶり」

「…………はい」


 小さい声しか出なかった。丞はドアを入ってすぐのところで立ち止まっている。


「柚希、行けよ」


 隣にいる凌久に背中をつつかれる。

 柚希は頷くとゆっくりと立ち上がった。

 いつもならスッと歩けるのに緊張してぎこちない動きしかできない。


「柚希、大丈夫だ」


 凌久の一言で柚希はゆっくりと歩き出す。ベッドから扉まではそうたいした距離ではない。


 丞の前に来る。


「丞くん……」


(あぁ、本当に丞くんだ…………)


「柚希ちゃん、ほんとに頑張ったんだね」


 丞からの労いの言葉で思わずこぼれ落ちた涙を優しく丞は拭ってくれた。


 丞を席に案内する。


「丞くん、ようこそ我が家へ」

「今回も一晩お邪魔させてもらうからパインステーキ楽しみにしてるよ」

「母さんがめっちゃ料理たくさん下ごしらえしてたから、すごい量のご飯になりそうです」

「豪華だね」


 丞が嬉しそうに笑う。ファンの人たちには申し訳ないが、今だけはこの笑顔は独り占めさせてほしい。

 ……凌久はいるけど。


「そういえば、凌久から聞いたけどスキー始めるんだって?」

「はい。テレビで観戦したときにはまっちゃって……いざ、自分がやる競技を考えたときにアルペンスキー以外に想像できなかったんです」

「アルペンスキーってことは結城選手っているよね?」

「はい。同い年の結城栞奈選手。知り合いですか?」

「強いよ、つか僕には怖い」

「え?」

「僕と栞奈ちゃんの姉の美郷ちゃんは幼馴染みなんだ。だから、みさちゃんと遊ぶときにはよく栞奈ちゃんも来てて……」

「怖いってどういうことですか?」


 丞の目が遠くなる。


「いや……ほんと負けず嫌いで、まぁ僕もだけど、遊んでて負けると自分が勝つまで何回一緒にやらされるか…………」

「テレビの結城選手はそんな風に見れないですけどね」

「いつも基本的に勝ってるから。負けると大変だよ」


 そう丞は言うけど、柚希にはそもそも結城選手が負けている姿が想像できない。

 丞が唇の端を上げる。


「つか、パラリンピックで金メダルどころか日本一になるためにはそもそも栞奈ちゃんに勝たないといけないんだけどね」

「あ」


 盲点だった。別次元の強さを誇っている結城選手に勝つなんてできるんだろうか……そんなことは分からないがそれでも、ここで宣言しておきたい。


「丞くん、わたし絶対にいつか結城選手に勝って、パラリンピックで金メダル取ります!!!」

「柚希ちゃん、なんか変わったね」

「そうですか?」

「強くなった。なんか本当に金メダル取りそうな気がしてきたよ」

「気がするんじゃなくて、取るんです」


 うふふんと笑う結城を丞は見ていた。


(やりたいことなんかないって言うんじゃないかと思っていた僕は本当に馬鹿だった。柚希ちゃんはちゃんと新しい一歩を踏み出してたんだ)


「柚希ちゃん、約束覚えてる?」

「もちろん」

「果たす日は近そうだね」

「うふふふ」

「本当に金メダル取ってくれそう」

「ほんとですか?」

「うん。だから、辛いときとか苦しいときとか、スランプに陥っちゃったときにはその気持ちを忘れないで。金メダルを取るってその気持ちが自分を救ってくれるし、強くしてくれるから」

「はい」


 柚希が大きく頷くのを丞は優しい目で見守ってくれた。







 そのとき、咲来の声が聞こえた。


「悪いけど、凌久くんを借りてもいいですか?」


 凌久が少し笑う。

「今、話の輪から弾き出されてるところなんでちょうどいいです」と小さな声で言った凌久が部屋から出ていく。


 それを見ていた丞の目がふいに心配そうになる。今までのテレビで見る九条丞の顔が崩れ落ち、一気に凌久の従兄弟の顔になる。


「これ、柚希ちゃんに聞くのはお門違いだとは思うんだけどさ……」

「なんですか?」

「凌久、大丈夫そう?」

「はい。新しいお母さんにはお会いしたことないんですけど、さっき聞いたところだと一緒に野球観戦したりしているみたいですよ」

「へぇ、そうなんだ」

「あとはちょっと礼儀正しくなりました」

「ん?」

「新しいお母さんに絞られてるみたいですよ」


 柚希が笑うと丞も「凌久の態度を変えられるお母さんなんて、すごいな」と笑った。


「丞くんは会わないんですか?」

「ちょっと迷ってる」

「え?」

「いや、凌久から僕が凌久の従兄弟だとは伝えたけど興奮しすぎてて会わない方がいいかもって言われたから」

「あ、そうなんですか」



 丞は世界王者だ。世界中にファンがいる。そのため、情報漏洩やフェイクニュースには殊更に気を付けている。それでも日本では歩いていれば囲まれるし、盗撮も日常茶飯事だ。


 カナダで何が一番嬉しいかと言うと、悠々自適に外を歩けることかもしれない。

Hi,Tasuku丞、こんにちは! What’s up何してるの?」と聞かれるくらいで囲まれたことなど一度もないし、試合前などはにこり笑って手を振るくらいで話しかけても来ない。

 それはカナダには多くの有名スケーターが練習していて周囲の人も有名人に会うことに慣れていること、そしてスケーターの心理状態をよく理解しているからだろう。


「それでも、一度会った方がいいとは思っているんだけどね……」

「そうですね」

「まぁ、今回は会わないけどいつか会えたらいいなとは思ってるよ。凌久のお義母さんだもんな。会いたいよ」







 下の階から声がかかる。


「柚希? 丞くん? ご飯できるわよ」

「はぁい」

「はい」

 返事をすると柚希と丞は歩き出す。柚希は普段より気持ち速めに、丞は柚希に合わせて普段より少し遅めに。


「階段降りるの?」

「はい。これもリハビリの一貫なんで」

「あ、そうなんだ」


 柚希は小さな声で言う。


「だから、母さんがわたしを呼ぶのはまだ準備している最中なんです。わたしが降りてきたときにちょうど出来上がるように」

「優しいんだね」


 柚希は深く頷く。本当に優しいのだ、母は。柚希の事故のあとからは会社に泊まるようなことも少なくなり、なるべく家で家族みんなで揃う時間を捻出してくれるようになった。


 下に降りるとテーブルがごちそうだらけになっていた。


「わぁ、すごい」


 思わずはしゃいだ柚希に母はキラリと瞳を輝かせてお茶目に言った。


「あら、柚希にじゃなくて、丞くんになんですけど」


 柚希が笑う。



「じゃあ、食べましょうか」


 全員が席に着く。


「「いただきます」」


 この日のことは柚希の心に深く刻まれた。

 柚希がスキーを始めるのはもうすぐだ。

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