第22話 夏→冬

 夏が来た。

 周囲の木が青々とした葉を携えている。


 柚希がスーザンスキークラブに所属してから三年目。初めて家に帰る日を迎えた。そもそも試合以外で日本に行くことがなかったので、家に帰るのも家族に会うのも三年ぶりだ。

 飛行機に乗り、空から地上を見下ろし柚希は思う。


(だいぶ変わったな……)


 と。何が変わったのかは分からない。自分の肩書きなのか、自分ができるようになったことなのか、それともその土地なのか、はたまた全く違うことなのか。

 それでもオーストラリアに向かったときとは心情は大きく異なっていた。

 日本に到着したのは夜遅くだった。







「柚希!!!」


 入国審査を終えた柚希がガラスの自動ドアを潜ると目の前には会いたかった顔が並んでいた。

 柚希は母、咲来、アランの顔を順に見つめ、言った。


「皆、心配たくさんかけてごめんね。それなのに、一度も帰って来なくてごめんね」

「何言ってるのよ、柚希。日本一になってくれたじゃない」


 咲来の暖かい言葉は柚希の心に優しく響いた。


「………姉ちゃん。カナダからわざわざ来てくれてありがと」

「いいのよ。私たちも日本に来れて嬉しいし、観光もちゃんとしたから」


 咲来はからからと笑った。隣でアランも頷いている。


「それじゃあ、帰ろっか」

「うん」


 柚希は母の運転する車で家に帰った。





 車から降りると寒さに思わず身震いする。夏だったオーストラリアから冬の始まった日本に来ると寒暖差が激しい。


「新潟はもっと寒いと思うけど」


 からかうアランをひと睨みして、柚希は玄関に向かう。


「柚希さん!」


 玄関からお手伝いさんが飛び出してくる。

 名前も知らないお手伝いさん。もともと父の実家の人だったという。父が亡くなった後も戻らずにここで働くことを希望したらしい。凌久も家に戻っているので今は母と二人で暮らしているはずだ。


「ただいま戻りました」

「どうぞ、どうぞお上がりください」


「柚希さんの好きなものたくさん準備しておりますので」と言いながらお手伝いさんは柚希を部屋へと押し込む。


 居間のテーブルの上には大きな箱が置かれていた。

 箱は未開封の状態で無造作に置かれている。一見いつも寮に届くファンレターだと思ったが、家の住所は知らないはずだ。

 差出人を見てはっとする。

 そこには手書きで宛名が書かれていた。そして差出人の欄には『九条丞』と書かれていた。


「丞くんが……」

「同じ日に届いたお手紙には『冬にはこっちのスキー場に来るはずだろうから、それまで置いておいて欲しい』と書かれていました。ずっと柚希さんのお帰りを待っていたのです。もうしばらく待たせても大丈夫。先にご飯にしましょう」


 三年ぶりの家のご飯は変わらず美味しかった。


「ああ、家の味だ」

「今、わたしもそう思ってた」


 咲来の呟きに柚希も同意する。母が笑う。


「家の味ね……。母の味ではないもんね。私にとってもこれは大切なあの人の味なのよ」


 あの人――それが夫を差すのか、お手伝いさんを差すのかは分からないけど、家族全員にとって大切な味だということは分かった。


「柚希、改めてお帰りなさい」

「母さん……」

「すぐにまた新潟に行ってしまうのだから、ここにいるぐらいは羽を休めてのんびりしなさいね」

「うん。ありがと」


「ちょっと待ってて」と言い残し、柚希は自室に一度戻る。

 そして、床に置かれたスーツケースから大事に包まれたひとつの小さな巾着を取り出す。初めてメダルをとったときに紬が縫ってくれた巾着は今では大きく膨れていた。

 袋を持って家族の元に戻る。


「お待たせ」

「柚希、それは?」


 咲来の言葉にうふふと笑いながら柚希は巾着の口を開き、中からメダルを取り出す。

 全日本選手権のスーパー大回転の金メダルと四つの銀メダルだ。


「柚希……」


 頭では分かっているのに信じられないという顔で見つめてくる母の首にケースから取り出した金メダルを掛ける。


「全く家にも帰らずにひたすら練習してた結果だよ」

「ほんとに……」


 何か言いかけた母の目から涙が溢れる。


「ほんとに、お疲れ様。母として柚希を誇りに思うわ」

「母さん、その言葉は引退のときにちょうだい。今年はパラリンピックイアーだから頑張るから」

「柚希………」

「母さんと姉ちゃん、アランさん、それから父さんにも……全力で挑むわたしの姿をみて欲しい。」

「もう十分見せてもらっているけどね」

「姉ちゃん、こんなんじゃまた足りないよ」

「え?」

「もちろん、パラリンピックの金メダルをみんなの首に掛けるまでは何があっても諦めないから」

「柚希………」

「柚希、あんたはすぐに無理するから心配だわ。周囲の人の意見やアドバイスは大切にしなさいね。それから身体が休みたいときには休ませてあげること。必ずね」

「母さん?」

「全日本女王の柚希に私が言えることはもうこれくらいよ」

「母さん…」

「これは柚希の努力の結果だし、すごいことも分かるけど、ちょびっと寂しいわね。昔の泣き虫で可愛かった柚希はもういない。今、私の前にいるのは強くて、自分の芯をしっかり持った強い人だわ」

「母さん、今でもわたしは泣き虫で弱くて、昔からなんも変わってないよ。大丈夫。わたしはずっと母さんの自慢の娘でいたい負けずぎらいの女の子だから」

「柚希……ふふ。そうね。テレビで名前聞くようになって、なんかすごく遠いところへ言ってしまった気がしてたけど、そんなことはないのよね。柚希は柚希だもの」


 母は嬉しそうに涙を拭うと顔を上げた。


「柚希、あんたはあんたらしく進みなさいね。それでも壁に当たってどうにもならなくなったらいつでも帰ってきなさい。私はいつでも待ってるからね」

「母さん、ありがとう」







 部屋に戻った柚希はベランダから空を眺めた。オーストラリアと同じように星空が広がっていた。


 ふいにドアがノックされる。

 ドアを開けるとアランが立っていた。


「アランさん?」

「ユキちゃん、タスクから電話来てるけど出る?」

「丞くんから!? もちろん!」


 アランは柚希の手に携帯をポンと置くと部屋から出ていった。


「柚希ちゃん?」という声が聞こえ、慌てて耳に電話を当てる。


「丞くん?」

「柚希ちゃん、夜遅くにごめんね」

「丞くんならいつでも大丈夫です!」


 言った直後にかぁっと顔が赤くなる。何てことを言っているのだろう。


(こんなの好きって言っているみたいじゃない!)


 丞の笑い声が聞こえてくる。


「嬉しいこと言ってくれるね」

「もう、気にしないでください!」

「柚希ちゃん、照れてる?」

「照れてません!!」


 明らかに丞は面白がっている。


「それで、えっと、何のようですか?」

「いや、帰ってきてるんだったら話したいなって」

「わたしの番号も知ってますよね? なんでアランさんにかけたんですか?」

「んー? なんとなく、かな」

「なんとなく、ですか」


 丞らしくて脱力する。丞がわざとらしく咳払いする。


「それでさ、箱開けてくれた?」

「あ、ごめんなさい。まだなんです」

「そっか……答えを聞きたくて電話したんだけどな」

「えっ!? 今すぐ開けます!」

「やっぱ後でいいよ」

「え?」

「今は柚希ちゃんと話したい」

「丞くん………」

「……柚希ちゃん、金メダルおめでとう」

「いや、わたしなんかまだ一つですから」

「その一つが大事なんだよ。それが手に入るのは今回だけなんだから。何年か経ったらきっと大切なものになってる」

「そうなんですか……」

「僕だって初めて金メダルとったときのことは忘れてないよ」

「え?」

「初めての金メダルって今は大したことないって思ってても後になると大事なものだから」

「………」

「柚希ちゃん?」

「は、はいっ!」

「約束は叶いそう?」

「絶対にかなえます!」

「頼もしい」


 ふふふと二人で笑う。


「それじゃあ、練習に戻るね。」

「え、練習中なんでか!?」

「正確には練習中の休憩中」

「真面目に練習してください!」

「柚希ちゃんに言われるとは……」


 丞の笑い声が聞こえてくる。


「じゃあ、切りますね」

「柚希ちゃん、自分のこと誇りに思ってね」

「丞くん……」

「デビュー二年目であんなにメダルかっさらうなんて柚希ちゃんはすごいことしたからね」

「かっさらうって」

「ほんとにそんな感じだったよ」

「ふふふ」

「それじゃあ、お休み」

「はい。丞くんも練習頑張って」

「ありがと。またね」


 柚希は電話を切るとそのまま空を見上げる。


(やっぱりこの人はわたしの太陽だなぁ)





 この気持ちが何なのかにまだ柚希は気づいていない。

 丞からの箱を開け忘れていたことにも気付いていない。

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