第23話 凌久の夢

「柚希いるか?」


 次の日の朝、柚希が床の上で柔軟運動をしているとドアの外から懐かしい声がした。


「凌久!?」


 慌ててドアを開けるとそこには三年前より少し凛々しくなった凌久が立っていた。相変わらず、無表情ではあるが。


「よぉ、久しぶり」

「うん」


 柚希は「どうぞ、入って」といいなから凌久を自室に招き入れる。


「柚希、お帰り」

「……ただいま」


 凌久の目を見て気付く。そこには暖かい色が浮かんでいることに。

 父は不倫し、母は家を出ていき、ひとりぼっちで生きてきていた凌久の目にはいつも冷たい光が浮かんでいた。

 それが今は影を潜めている。


「……凌久、なんか変わったね?」

「そうか?」

「うん。どこがとは上手く言えないけど前みたいに暗くなくなった」

「まあ、もう三年だしな」

「そうだね」

「時の流れに身を任せていたらこうなった」

「何、おっさんみたいなこと言ってんの!」


 いつだったか凌久にされていたように背中をばしんと叩く。


「いってぇ」

「ふふふ。わたしも強くなったでしょ」

「知らねーよ」


 やっぱり根っこは変わっていないようだ。冷たい。






「それよか、あれな、柚希、金メダルおめでとう」


 慌てて凌久が話題を変える。

 柚希はまだ解体途中のスーツケースから再び巾着を取り出した。


「ほら」


 凌久の手にポンと乗せるとなぜか凌久は青ざめた。


「柚希、やめとけ」

「は?」

「俺なんかの手に置いたら錆びるぞ」

「そんなことないから」

「いや、危ない」


 凌久が何に必死になっているのか分からないけど、意外と天然なのかもしれない。それは一緒にいる間には見つけられなかった凌久の姿だった。





「じゃあ、受け取るわ」

「お前、危ないことすんなよ」

「だから、そんな簡単には錆びないから」

「いや、俺は危ない」

「何、自分のこと危険人物にしてるの」

「怖いじゃねーかよ、日本一のメダルとか」

「………そっか」


 凌久をからかっている間も柚希は柔軟運動を続ける。

 そんな柚希のことを凌久はじっと見つめていた。


「そういえば、その巾着に付いてるお守り、あの時兄ちゃんがくれたやつか?」

「そうだよ」


 柚希が丞に送って丞から柚希がもらった羽澄神社のお守りはずっとこの巾着に結ばれている。

 お守りというよりかは不安になったときに、『丞が応援してくれてる』と思えて安心するためのものだった。


 凌久がはぁぁぁと大袈裟なため息をつく。


「ほんっと柚希は兄ちゃんのこと好きだよな」

「そうだよ。あの時丞くんに会ってなかったらわたしは今、世界一になんてなっていなかった。最初の一年間、思う通りに動かない身体がしんどかったときも、次の年試合に全然勝てなかったときも、このお守りが励ましてくれた。今でもこのお守りを見てると丞くんとの約束を思い出してまた頑張れるんだよね」



 自分のことを話していた柚希は思い出す。そういえば凌久に聞きたいことがあった。


「わたしのことは置いといて、凌久はこれからどうすんの? もう高三でしょ?」

「大学行くよ」


 凌久はこの辺りで一番学力が高い清國高校に通っている。あの事故がなければ、きっと柚希も通っていたであろう学校だ。


「どこの?」

「京大」

「きょ、きょ、きょ、!?」

「どんな声だしてんだよ」

「いやいやいやいや、京大って言ったの!?」


 驚いた。京都大学なんて日本屈指の名門大学だ。


「柚希をみてて俺も変わりたいって思ったんだよ」

「えっ?」

「柚希はあんな事故に遭って、足失っても新しい目標見つけて頑張ってただろ? 俺も止まってられないなって」

「………」

「俺、今でも柚希をはねたトラックの運転手のこと許してないし、止められなかった自分のことも許してない。だけど俺がそうやってあの日で止まっていたのに、当の本人はさっさと新しい目標見つけて前に進んでた」

「そうかな?」

「気付いたらスキー初めてて、日本一になってて………俺恥ずかしかった。なんで俺は母さんが出ていっただけでこんな落ち込んでるんだろうって。なんで柚希は前向いてるのに俺は立ち止まったままだったから」

「凌久は苦しかったんでしょ? その気持ちに嘘をつくのはダメだと思う」

「柚希、俺の話聞け」

「なんで、いいこと言ったと思ったのにな」


 二人で笑い合う。久しぶりの凌久の笑顔はまだ若干の固さは残っているもののずいぶんと柔らかくなっていた。


「柚希、俺夢見つけたんだ」

「夢?」

「俺は医者になりたい。もう柚希みたいな人が増えてほしくないから」

「凌久……」 

「柚希をみてて思った。スキーやってる柚希はかっこいい。だけど、やっぱり俺は柚希のフルートが好きだったんだなって。あの音色が聞けないのは寂しい」

「フルートね、もう忘れてた」

「はぁ!? 忘れてた!? 何だよ、それ」

「忙しすぎたから」


 凌久の雰囲気が険悪なものになる。


「お前さ、なんでフルートやめた!? スキーやめるのは構わない。スキーで世界一になるのもすごいと思う。それでも、お祖母さんからの才能を、あの頃の自分の努力を絶対に忘れるな。あの音色は柚希にしか出せないんだからな!!」


 思わず涙が溢れてきた。

 忘れていた。忘れようとしていた。あの頃の音楽家になりたかった自分のことは。あのままフルートを続けていたら、きっと今はスキー板ではなく、フルートを片手に世界を飛び回っていただろう。

 それでもあの時変わりたかった。新しい自分になりたかった。そのために柚希はスキーを選んだ。


 柚希のフルートが大好きでその音を聞きたくて待ってくれている人たちがいることは知っていた。それでも柚希がスキーを選んだのには凌久から送られたあの言葉が背中を押してくれたからだ。



『お前は後のこと考えすぎなの。もっと楽に考えればいいじゃん? 俺がもしお前の立場なら、せっかくのコンクール楽しもうって思ってると思うけど』



 あの時――コンクールの選考会の前に緊張していた柚希をそう言って凌久は励ましてくれた。事故に遭った後、迷っていた柚希を最後に背中を押してスポーツの世界へと押し出してくれたのはあの言葉だった。

 もちろん丞との約束は大きかった。それでも『後のこと考えずに、楽にかんがえて、楽しめばいい』という、凌久の言葉が最後に一歩を踏み出す勇気をくれたのは間違いない。



「なぁ、柚希。またいつか、吹いてくれよ」

「え?」

「今すぐじゃなくていい。音楽会に戻ってこなくていい。スキーから引退した後でいい。後回しにしていいから、いつか必ずフルート聞かせて欲しい。柚希の音が聞きたい」

「………凌久」


 凌久との約束はまたひとつ柚希の背中を押してくれた。

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