第14話 世界一の男 その2
「柚希ちゃん?」
拳を見つめた状態で固まった柚希を丞は優しい笑みで溶かしてくれた。
「ねぇ、柚希ちゃん手こうして?」
丞が何をしたいのか理解できず首をかしげながら柚希が拳を握ると「ほら」と丞が自分の拳を柚希の目の前に持ってきた。
それで理解できた。
二人の拳が二人の真ん中でコツンとぶつかった。
「柚希ちゃん、絶対に夢を叶えてね」
「はい」
柚希は丞にあることを聞いてみることにした。
「丞くん、ひとつ質問いいですか?」
「もちろん。何でもどうぞ」
「なんで、いつもそんなに笑っていられるんですか?」
「どゆこと?」
「いつもファンとかメディアとかに笑顔で対応していて……たとえ試合に負けても、疲れると思うのになんで続けられるのかなって…………。なんで丞くんはわたしと3歳くらいしか違わないのにこんなに遠いところにいるんだろうって……」
上手く話を纏められずに尻すぼみになってしまった柚希の質問を丞は真剣に悩み始める。
「あ、なんかやっぱりいいです…………」
恥ずかしくなって止めた柚希の言葉を無視するように丞は話し出す。
「うーん、そうだな。僕にとって笑顔って、人の心を明るくする魔法のようなもの。どんなに辛くても、苦しくても、まずは笑え、笑っていれば嫌なことなんてなくなるって昔親に言われてからは常に笑うようにしてるよ。笑っていればよいことが起こる気がするんだ。印象も良くなるし」
「魔法……」
「そう。例えばすっごく強面なおじさんがいても、その人が笑ってくれれば自然と笑顔になることってあると思う。それと同じ。自分にも周囲にも笑顔の輪が広がる」
「なるほど……」
「あと柚希ちゃんは疲れないかって聞いてたけど、疲れたって思うことはないよ?」
「何でですか? プレッシャーとかは……」
「まず応援してくれてるとか期待してくれてるとかはありがたいことだから。疲れたとか言ったらファンなんて付いてきてくれない。「九条丞を応援して良かった」って言ってくれるファンの言葉が僕の原動力なんだよ」
「強いですね」
「そんなんに負けてたら試合には勝てないから」
なるほどと納得する。確かに応援を苦痛に感じる人が勝てるとは思えない。
「そうですよね……」
丞がベッドにそっと腰掛ける。
柚希はベッドの上半分を傾けて座っているような姿勢になっているので自分の足の横に丞が座っている状況だ。
思っていなかった状態に赤くなる柚希を見て丞は静かに微笑んだ。
「僕はさっき、柚希ちゃんにスポーツやってみたらって言ったけど別にやらなくてもいいんだよ? フルート続けたっていいと思うし」
「フルート……」
「柚希ちゃんの演奏は世界一だって凌久も咲来さんも言ってるからいつか聴いてみたいって思ってるし……」
その言葉でスポーツをするという方向に傾いていた心がぐらっと戻ってきた。
「悩む時間はたくさんある。ゆっくり考えて、自分の進むべき道を探して。僕だって、今探してる最中だし」
「丞くんは探すことなんてないでしょう? 世界一のスケーターなんだから」
「うーんとね、僕が探してるのは引退後の自分だよ」
「引退!?」
「いや、今すぐに引退するってことじゃなくて。これは皆知ってると思うけどフィギュアって引退の年齢が早いんだよね。だからそのあと何をしたいか、どう生きていきたのか考えてる」
丞の言葉は温かくて優しいが強い芯を持っていて、柚希の胸にじんわりと広がった。
「丞くん、やっぱり私新しいこと始めたいです」
「そう?」
「今の言葉で決めました。わたし、アスリートになりたい」
「僕はリハビリしながらでいいからゆっくり考えてみてって言ったんだけどな」とぼやく丞を無視して笑った。
「そしたら」といって丞が少しかがんで柚希の方を見上げる。今はベッドの背もたれの部分が上がっているため2人の目線は同じくらいだ。
「いつか怪我を乗り越えた柚希ちゃんの強い姿見せてくれる?」
次があるということに驚いた。
「これ以上丞くんに支えてもらうと他のファンの方たちから疎まれますから」
「だから僕たちはファンとスケーターじゃなくて、従兄弟の友だち、友達の従兄弟って関係だから」
テレビ越しに見て悲鳴を上げているあどけない笑みで言われて否定なんて出きるはずがない。
「じゃっ、じゃあそういうことにしておきましょう」
「そうだね。だからいつか柚希ちゃんの姿見るのを楽しみにしてるね」
「わたしもいつか生で丞くんの滑りを見れるように頑張ります」
今度は自分から拳を突き出した。丞も拳を握る。またコツンとぶつかる。それは先程のような軽いものではなく、強くて『絶対に実現する』という強い意志が籠っていた。
「それじゃあ、そろそろお暇しようかな。練習行ってくる」
「もしかして、練習サボって来てくれてたんですか?」
「サボってとは人聞きの悪い」
丞は柚希を軽く睨む。
「あ、ごめんなさい」
「まぁ、いいんだけど。というか練習って自主練だから。ホームはカナダだよ? 今は一週間の臨時帰国」
「何かあったんですか?」
「いや、僕は通信制の大学に通ってるから時々行かないと行けないんだよね。今はシーズン中だけど今日は大学行ってから、ここに来たんだよ」
「なるほど」
いたずらっぽく丞が笑う。
「ちなみに昨日の夜は羽澄家に凌久とお邪魔しました」
「ええっっっっ!」
丞は「だから、パインステーキ」と言った。納得する。
丞が片手を小さく上げた。
「それじゃあ、ほんとに行ってくるね」
「はい」
丞は来たときと同じように、黒い帽子とサングラス、そしてマスクを身につける。
「それで歩いててばれないんですか?」
「外に車が待ってるから大丈夫」
丞は笑った。
そして柚希に持ってきた大きな紙袋を渡した。
「そしたらこれは後で開けて。今だとちょっと照れくさいから」
丞の耳が少しだけ赤くなっている。
「分かりました」
「それじゃあ」
部屋から出ていこうとした丞に「丞くんっ!」と柚希は呼び掛けた。
「あの、今日はありがとうございました!これからも応援してます!!!」
「ありがとう」
今度こそ丞は部屋から出て颯爽と帰っていった。扉がパタンと閉まる。それでも「また会える」という予感がして寂しくは思わなかった。
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