第7話 凌久の家族 (凌久視点)

 俺は廣瀨凌久。


 親は共働きでそもそも会う日が少ない。たいてい俺が起きている時間は仕事に出ていて、寝ている時間に帰ってきてまた出発する。


 そんな日々が小学生の頃から続いている。はじめは父の借金返済が目的だったが返済した今でもその時のことが両親の間に大きな溝を作っている。


 幼い頃から一人で過ごすことが多かった俺をよく預かってくれる家族がいた。俺と同い年の子と四歳年上のお姉さん。お母さんとお手伝いさんと四人で暮らしていたが凌久のことを実の息子のように可愛がってくれた。その頃から人と接するのが苦手だった俺はあまり喋らないし、基本的に無表情だし、愛想も悪かった。それでもその家にいると自然と笑える、そんな雰囲気が漂っていて居心地が良かった。

 その家族は羽澄一家。父親は柚希が幼い頃に他界している。一度柚希にお父さんについて聞いてみると「わたしにはお父さんとの記憶がほぼないの」と寂しそうに笑っていた。

 それからはあまり家族の話もしていない。



 俺の家族に話を戻そう。

 この家に二度と修復できない決定的な傷を作ったのは父だった。

 俺が中学校に入学して間もないある日、珍しく父が早くに帰宅した。

 俺はそれが嬉しくて思わず玄関に飛び出して迎えた。


「お父さん、お帰り!」


 そう言った凌久にクスクスと笑いながら話しかけてきたのは一人の女性だった。


「あら、この子が凌久くんかしら? 廣瀨さんに似てイケメンなのね」


 俺の目には父の姿しか写っていなかったが、そのとなりには当たり前のように一人の女性が寄り添っていた。


「お父さん、その人……」

「邪魔だ、凌久。どけ」


 そう言った父の目は今までにないほど冷たかった。

 思わず凌久が道を開けると父とその女性は二人で玄関に入ってきた。


「廣瀨さん、お邪魔してほんとにいいの?」

「ああ、構わない。あいつは今日帰ってくるのは日付変わる頃だからな」

「まぁ。それじゃあゆっくり過ごせるわね。嬉しいわ」


 二人で父の部屋へ入っていく。

 俺はその扉をしばらく呆然と見つめていた。父が不倫なんてするわけないと思いながらも、実際に不倫している現場を見てしまったら信じるしかない。


 どのくらい時が経ったのか分からない。何かの物音というか誰かの声がしたような気がして耳を澄ます。父の部屋からは何かの軋むような音とともに誰かの呻くような声が小さく聞こえる。


(まさか…………)


 ふいに女性の声が大きくなった。



 俺だってもう中学生だ。

 その声が聞こえた瞬間、全てを理解してしまった俺は家を飛び出して柚希の家に向かった。


「凌久?」


 柚希の家の前でしゃがんでいると、声が降ってきた。顔をあげるとそこには心配そうな顔をした柚希がいた。


「どした? そんなとこにうずくまって」

「柚希……」


 柚希は俺のことを家に招いてくれた。居間に入ると咲来がいた。柚希は俺と咲来を見比べると、無言で自分の部屋を指差した。


(あっちで聞こうか?)


 俺が頷くと柚希は自分の部屋へと歩きだす。


 部屋に入って俺がいつものように柚希のベッドに腰かけると柚希は自分の学習机の椅子に座ってこちらを見た。


「何かあった? ……って聞いていい?」


 まだ心の整理がついていない。そう思って首を振った。


「…………そっか」


 柚希は呟くと俺の横に座る。何をされるのかと思わず身構えると頭の上にそっと優しく手が乗った。懐かしい感覚だった。ひとりでいた俺を柚希はよくそうやって撫でてくれた。親がいなくて泣いていた俺を柚希はそうやって慰めてくれた。あの頃より大きな手が頭をゆっくりと撫でてくれる。

 いったいどれほど柚希は俺を撫でてくれていたのだろう。気が付くと俺は柚希に今日の出来事を話していた。

 柚希は最後まで何も言わずに聞いてくれた。


「……そんなことがあったんだ」


 柚希はそうポツリと言う。それに合わせ俺の目からもポタリと雫が落ちた。


「凌久?」

「なんで俺んちは柚希たちみたいに仲良くできないんだろうな……。なんでお父さん、あんな人つれてきたんだろう」


 柚希は俺をぎゅっと抱きしめてくれた。


「ねぇ、凌久。あんたが今日みたいに辛いときはわたしが支える。凌久は人に助け求めるの下手なんだからわたしにくらいは寄りかかっていいんだよ?」


 中一にも関わらず、俺は柚希の腕のなかで不覚にも泣き崩れてしまった。


「……柚希。もう大丈夫だから」

「無理しないでね」


 柚希は心配そうな目で見送ってくれた。





 父は母にバレていないと思っていたようだったが母は全て知っていた。しばらくは二人とも仕事が忙しく、家に戻って来なかった。それが言い訳なのか、本当なのかは分からないが。

 二人が揃う日がまれにある。すると喧嘩が絶えない。俺はそれを見ているのが嫌ですぐに柚希のところへ行く。これは逃げなのかもしれない。嫌な現実から目を背けているだけかもしれない。それでも柚希の家に来るとどこかほっと一息つけるのであった。


 そんなこんなで何とか二年間が経過した。



 そして今日。ついに母は帰ってこなかった。最初は仕事が忙しいのかと思っていたが、自分の机においてあった母からの手紙を見て悟った。母は自分を捨てたのだと。そっと手紙を開く。









凌久へ

 今までたくさん迷惑をかけてごめんなさい。凌久には寂しい思いをずっとさせてしまっていました。だからこれからは新しい凌久になってほしい。私のことはもう忘れてくれて構わないです。

 でも、これだけは伝えておきたい。何か夢ができたら、全力で掴みに行きなさい。凌久ならできる。凌久は私の自慢の一人息子です。

 今までありがとう。ごめんなさい。

 一生、凌久のことを愛してる。










 涙を止めることができなかった。思わずあの日みたいに柚希のところへ行こうとして気付く。明日は柚希のコンクールだ。きっと今は全力で最後の練習をしているだろう。そんな柚希に自分の家族のことを話すのは気が引ける。


 俺はふうと息を吐いて、窓から外を眺めた。

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