第39話 明日が決戦の日

 丞がショートプログラムで首位発進してから一夜が明けた。


 丞は公式練習へと向かおうとしていた。二度目の五輪王者へ、連覇という偉業に近づきつつある丞に対しメディアは異常なほどの盛り上がりを見せていたが、丞本人は何も変わらずいつも通り過ごしていた。


「タスク、おはよう」


 選手村のエントランスでシンシアと再会する。シンシアも普段と変わらない笑顔で迎えてくれる。


「おはよう、シンシア」

「体調は万全ね? 睡眠は十分とったわね?」


 試合の度にシンシアは同じ質問をしてくる。

 それでも前回のオリンピックでは不安と緊張からショートプログラム前日の夜は全く寝れなかった。

 しかし、今回はそうではない。大勢の友達や関係者から送られてきた応援メッセージにある程度返信すると、布団に潜って好きな音楽をBGMにしながら浅い眠りではあるがしっかりと睡眠時間だけは確保した。痛めた腰も少しは良くなっている。


「大丈夫だよ」

「それじゃあ、行きましょうか」

「うん」


 二人で並んで歩き出す。





(あと、何度こうして歩けるかな…………)


 緊張ではなく、寂しさが込み上げてきた。

 たぶん自分は次のオリンピックには出場できないだろう。いくら今世界一になっていたとしても、四年後はきっとそこにいられていない。技術は日進月歩の速さで進んでいる。

 今、丞が跳べるのは四回転半までだ。五回転ジャンプに成功した選手がいるなか、これから四年間はますますジャンプが勝利の鍵になる。今の丞には新たな武器を手にすることは難しい。

 丞には大きな爆弾がある。三年前のオフシーズン、四回転半の着氷に失敗し、転倒した。そのとき、腰骨を折ってしまったのだ。治った今でも雨の日には腰が痛む。これ以上のジャンプの習得は身体に負荷がかかるだけだ。


 きっとこの五輪が丞にとっては最後の五輪になるだろう。

 そのため、丞は今回自身の最後の五輪でどうしても伝えたいことがあった。シンシアへ感謝を伝えたかった。



 送迎のバスがやってくる。日本選手三人と関係者が乗り込むと、バスはゆっくりと出発した。丞は通路を挟んで向かいに座ったシンシアを見た。



「シンシア、今までありがとうね」

「どうしたのよ、急に」


 シンシアは笑った。


「いや、なんでもないけど。演技前に伝えたかったんだ」

「うふふ」

「シンシア?」

「今日の練習は手を抜いてもいいし、怪我をしなかったらなんでもいいから。だから、明日本番の演技で私を泣かせてちょうだい」

「どういうこと?」

「あれだけ、あんたが熱望したプログラムよ? 最高の舞台で最高の演技を見せなさいよね」


 丞が自分から曲を指定することは滅多にない。大雑把にどんな曲を希望するか、ジャンルや世界観のみを伝え、振り付け師が持ってきた曲から選ぶのが基本だ。それは他者から見た自分や、新たな表現の可能性を見つけることができるからだ。


 しかし、今シーズンの丞は曲を指定した。ショートプログラムは『サン・サーンス 動物の謝肉祭より白鳥』、フリープログラムは『火の鳥』、どちらも鳥がテーマの曲である。

 それには理由がある。『白鳥』では息絶えるまで懸命に生きる生命力を表現し、打って変わり『火の鳥』では逞しく生き抜く生命力を表現する。互いに正反対の生命力を描き分ける、これは丞が以前から演じてみたかったことだった。





 それを勝負の年に丞は選択した。





「任せて」

「楽しみにしてるわね」


 バスが到着する。


 バスを降りた瞬間、世界中のマスメディアのカメラが回り始める。シャッター音が鳴り響く。

 丞はシンシアが少し下がったのを感じた。シンシアはいつもそうだ。カメラマンがいるときには撮影の邪魔にならないよう基本左斜め後ろに立つようにしている。

 以前、丞が尋ねたときシンシアはこう言った。「だって、主役は選手よ?」と。『自分はそれを支える側なのだから目立ってはいけない』というシンシアの持論を知ったときから、丞は彼女に全幅の信頼を置くようになった。


「タスク、行くわよ」


 シンシアの言葉にひとつ頷くと丞は会場に入った。






 リンクの上ではひとつ前の第三グループの公式練習が終わろうとしていた。そこには長年のライバル達の姿があった。丞がかつて憧れた選手たちだ。自分の上に居座っていた強豪たちを丞は追い抜いていた。高難度ジャンプを跳ぶ若手の台頭により、いまは成績こそ振るわなくなっているが、芸術性に溢れる個性豊かなスケーターたちだ。


 丞はちょうど芸術性とジャンパー気質のどちらも必要だった世代である。芸術性では先輩に負けるがジャンプだけでも敗北する。そのため、難度の高いジャンプを跳びながらも、芸術的な滑りができなければ勝てなかったのだ。


 第三グループの練習が終了した。そして、最終グループがリンクインする。

 すれ違いざま、一人の選手が声をかけてきた。「タスク、期待してるよ」と。丞が尊敬してやまない開催国スイスの英雄ヴォルフガング・フシュケ選手だった。

 ライバルを応援するヴォルフガング選手に驚き、しばらく突っ立っていた丞に彼は笑っていった。


「きみは僕たちが大切にしてきた表現力と芸術性を受け継いでくれた。君ほどの才能があればジャンプに傾倒しても良いのに。だから、僕は今回、君に勝って欲しいんだ。技に表現が勝つところを僕は見たい」


 何も言えなかった。丞はリンクから上がったヴォルフガングに一礼した。彼は軽く微笑むとコーチと共にリンクから去っていった。





 リンクインして、名前がコールされる。そして、滑走順に沿って曲かけ練習が始まった。丞は最終滑走、つまりオオトリだ。

 自分の曲かけ練習まで時間があるので丞はジャンプの確認はあまりせずにスケーティングを確認しだした。自分を何台ものカメラが追っているのを視界の端に捉えながら丞は加速する。

 そして、カメラマン達の目の前で豪快に四回転半ジャンプを完璧に着氷してみせた。観客からの拍手が鳴り響く。

 それからは徐々にジャンプの確認も始め、身体が暖かくなってきたころ、丞の曲が流れ出した。

 ジャンプは規定の七本全てを完璧に決め、スピンとステップも含め、心から楽しみながら丞は滑った。


 この『火の鳥』という曲は滑っていて本当に楽しい。スケートを始めたばかりのリンクをぐるぐる周回するだけでも楽しかった、ジャンプを跳べばどこまでも跳べると思っていたあの頃の自分に戻れる気がするのだ。








 丞は子どものように楽しそうだった。オリンピックの大事なフリースケーティング前日とは思えないほど緊張の欠片もなく楽しんでいた。

 シンシアはそんな丞を暖かい眼差しで見つめていた。








 シンシアと丞は終了時刻より少し早めにリンクから上がって練習を終わりにした。









 インタビューで丞は一言言った。


「明日、楽しみにしていてください」








 二人で創ってきた、二人が通ってきた、道の終着点はもうすぐなのかもしれない。

 いよいよ明日が決戦の日だ。

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