第40話 オリンピックが終わる
公式練習の朝、唐突にバスで丞に言われた言葉に正直シンシアは動揺していた。
別れを告げられた気がしたのだ。もしかしたら、丞は引退を考えているのではないかと。シンシアは頭を振ってその思いを消し去る。
(………まだ二十二歳よ。早すぎるわ)
フリースケーティング当日の朝早く、まだ太陽が昇っていないような時間にシンシアは起床すると部屋からでた。
まだ外は凍りつくような寒さである。もちろん冬季オリンピックが開かれるのだからそれなりの寒さだが、今年の冬は例年よりも寒い気がする。
丞との会話を思い出しながらシンシアは歩きだす。
(タスクは、いつもならあんなふうにお礼を言う子じゃないわ。今回、引退を考えているとすれば分かるけど……。だけどそんな重大なこと私に相談せずに一人で決断するようなことはないはず)
今日の演技は特別なものになる予感がした。そして、シンシアがそう思ったときの丞の演技はいつも特別なものになる。
世界最高得点を始めて叩き出した五年前。試合前に高熱を出し、まだ回復する前に挑んで見事優勝した三年前の全日本選手権。
本気になったときの丞は強い。
「シンシア?」
声が聞こえる。シンシアが顔を上げると、そこにはヴォルフガング・フシュケの姿があった。
「おはよう、ヴォルフ」
「おはよう、シンシア」
二人は三十歳の差があるが、仲の良い友達でもある。
丞が憧れているヴォルフガングはシンシアの滑りを生で見たことがきっかけでスケートを始めた。以前、一年だけ臨時コーチとしてヴォルフガングの面倒を見たこともある。
シンシアにとってヴォルフガングは丞のように第二の子とは言えないが、第二の従兄弟くらいには思っている。
「早いわね」
「しっかり寝れないんだ」
「あの頃からそうだったわね」
「今でも試合の朝、言ってるの? 『体調は万全ね? 睡眠は十分とったわね?』って」
「当たり前じゃないの」
ヴォルフガングは笑った。昇り始めてきた朝日に良く似合う明るい笑顔だった。
「あなたにも期待してるわよ」
「期待に応えてみせるよ。まだ負ける気はないから」
自信に満ちた笑みを浮かべると「じゃ」と片手を上げ、ヴォルフガングはスイスの選手たちの部屋の方へと戻って行った。
太陽が昇った。空が明るくなった。
約束していた時刻の五分前に集合場所に到着した。珍しい。思わずシンシアは拳を握った。
時間通りに丞が部屋から出てきた。シンシアの顔をみて少し意外そうな表情を浮かべた。
「…………おはよう、シンシア。んっ~と、どうしたの?」
「どうしたとは何よ!? しっかり時間守っただけよ」
「誰かに叩き起こされたの?」
「あんたよりずっと早くから起きてましたけど」
いつも通り丞と軽く話しながら丞とバスに乗り、リンクへ向かう。
最後の公式練習が待っている。
シンシアは丞の顔をじっと眺めた。品の良いその顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。緊張の欠片も感じさせない、彼の表現からは何も読み取ることはできなかった。珍しい。いつもならシンシアには丞の感情がなんとなく読み取れるのだ。
(完全に自分の世界に入っているのね……)
バスが到着する。そして、丞はゆっくりと会場に入った。堂々とした背中をシンシアは追いかける。
公式練習中盤のことだった。
丞がシンシアの元に滑ってくる。
「シンシア、もう大丈夫」
「そう?」
「うん」
丞が自分の曲かけ練習を待たずに練習を切り上げることはほとんどない。
それでも丞の意思を尊重し、リンクを下りることに決めた。
すぐに更衣室に向かおうとする丞を引き留める。
「タスク。正直に答えなさい。腰痛むの?」
「いや。安静にしたいだけ」
「本当にね? 悪化してるのここで隠しても後で後悔するだけよ」
「大丈夫だよ」
丞の「大丈夫」に騙されたことは何度もあるが今回は丞を信じることにした。
本番前に動揺させないことが大切だ。それに自分が見ていた中で怪我をしたような素振りも場面もなかったはずだ。
いつもと同じ様子の丞がいつもと違う行動をとってから約七時間。いよいよ決着のフリースケーティングが始まった。
最終滑走。ひとつ前のエマニュエル・オステルメイヤー選手がかなりの高得点を叩き出した。丞は自己最高得点、つまりは世界最高得点を出すくらいの演技をしなければならない。
それでも丞の表情には微塵の揺らぎもなかった。
「タスク、あなたならできる。行ってらっしゃい」
丞はひとつ頷くと拳を差し出してきた。二人の拳がぶつかった瞬間に丞はリンクの中央へと滑っていった。
『火の鳥』が会場に流れ始める。
丞は『白鳥』の時とは打って変わり、ものすごいスピードで滑り始めた。何度か翼に見立てた手を振りながら丞は大きく飛び上がった。
一、二、三、四と半分……
きっちり四回転半回り、丞はクワッドアクセルを着氷した。そして、そのまま勢いを殺さずに後ろへと滑っていく。腰を怪我してるとはにわかに信じられない。
見ていたシンシアは不思議な感覚にとらわれた。丞が本当に鳥に見えたのだ。大空を自由に飛ぶ、若い鳥がそこで舞っていた。
もしかしたら観客もそんな気持ちなのかもしれない。丞がひとつジャンプを決める度に周囲のボルテージが上がっていく。
最後がトリプルアクセルという珍しいプログラムだ。
その助走に丞が入った。まだ滑っていたそうな表情だ。
(それにしても、勢いがありすぎるわ……)
飛び上がった…………はずだったのに丞は一回転半で下りてきた。
周囲から悲鳴が降り注ぐなか、丞はフィニッシュポーズをとった。
それでも最後のアクセル意外はミスがなかった丞にスタンディングオーベーションをした観客から温かい拍手が降ってくる。
四方に丁寧なレヴェランスをした丞がこちらに向かって滑ってくる。
「シンシア、ただいま」
「お帰りなさい」
丞の表情には後悔の色は浮かんでいなかった。
キス&クライで待っている間に丞く聞いてみる。
「何があったの?」
「ジャンプの軌道に入ったときにスピードを上げすぎちゃってタイミングが少し遅くてなった。跳んだ瞬間、シングルアクセルになってしまったんだ」
「それまでが完璧すぎたものね。ミスはあったとしても素敵だったわよ」
「自分でも驚くくらい身体が軽くて空を飛んでる気持ちだった」
「ゾーンに入ってた?」
「かもしれない。最後跳ひ上がった瞬間に意識がはっきりしたから」
丞の得点が出る。
エマニュエル・オステルメイヤー選手にわずか1.26点届かず二位。フリースケーティングのみの点では三位のクロード・カスティーユ選手にも負けているが、ショートプログラムの得点がぶっちぎりの一位だったため踏みとどまった。
手元の電光掲示板を眺めていた丞が顔を上げて大型スクリーンに写し出された自分の姿を見つめる。丞がぐぐっと歯を食い縛るのが分かった。
「シンシア、ごめんね」
「何が?」
「金メダルかけてあげれなかった」
リンクから上がってきたときには浮かんでいなかった後悔の色が今ははっきりと見てとれる。
(最後のアクセルは悔しいわよね…………)
「私、言ったわよね。最高の舞台で最高の演技をしなさいって。タスク、あんたはちゃんとしたじゃない。最後のアクセルも含めて私にはあんたが一羽の鳥に見えたわ。だから、今回はあなたらしい演技をしてくれたと思っている。ジャンプと表現、どちらも世界一のあんたらしい演技だったわ」
「…………」
「ありがとう、丞。あなたにとったら銀メダルなんて悔しい色でしかないかもしれないけど、私は嬉しいし、誇らしいわ」
「………ありがとう、シンシア」
丞のことを大きくハグする。そのとたん会場中から温かい拍手が鳴り響いた。
そして気がつく。未だにキス&クライにいたままだったことを。
少し照れた表現を浮かべた丞が立ち上がる。
「みなさん、ありがとうございました!!! Thank you very much!!!」
大声で叫んだ丞に会場からも「ありがとう」の声が降ってきた。シンシアも日本語を少し勉強したので「ありがとう」は聞き取れる。
思わず口に出ていた。
「タスク、アリガトウ」
丞がこちらを振り返る。驚いた目に涙が浮かぶ。
「ありがとう、シンシア」
初めて丞から日本語で話しかけられた。
もう一度ハグをして、丞とシンシアはリンクから去った。
銀メダルを手にした丞が、金メダルのカナダ代表、エマニュエル・オステルメイヤーと、銅メダルのルクセンブルク代表、クロード・カスティーユと共にリンクを周回していたとき、ミラクルが起こった。
丞は周回しながら笑顔だったが浮かない気持ちだった。
(シンシアはああやって言ってくれたけどさ、やっぱり金メダル掛けたかったな………。最後、しっかりアクセル決めきれたら、僕が一位だった………)
それは写真撮影を終えた三人がそれぞれの国のカメラマンの前で撮影をしていたときのことだった。
カナダのカメラマンたちの前で写真を撮っていたはずのエマニュエルが突然丞の前に滑ってきた。カメラのシャッター音が鳴り響く。
エマニュエルは自らの首に掛けてあった金メダルを丞の首に掛けたのだ。
「えっ!?」
丞は思わずエマニュエルを凝視した。ライバルの首に自分のメダルをかけるなんてことは普通しない。
そんな丞にエマニュエルは笑って言った。
「僕にとってはタスク、君が優勝だよ。君こそゴールドメダリストにふさわしい」
「なぜ? 僕は君に負けたんだ」
「僕はジャンプが成功したから勝っただけだ。でもそれは本来のフィギュアスケートじゃない」
「…………」
「君は以前のインタビューで言っていた。表現力では太刀打ちできなかったからジャンプの数を増やした、と。僕は真逆なんだ。ジャンプでは勝ったかもしれない。だけど、表現力では絶対にタスクに負けてる。グリーンルームで見ながら思ったんだ。鳥がいるって。ショートもフリーも君は一羽の鳥だった」
「エマニュエル………」
「君にとってのスターはヴォルフガング・フシュケかもしれない。僕にとってのスターは、タスク・クジョウ、君なんだよ」
話していた二人のもとへクロードもやってきた。クロードは二人にとっては少し先輩だ。
「そして、僕の憧れはタスクとエマニュエルなんだよ」
銅メダルも掛けられる。
「タスク、自分を誇ってよ」
そう言ってくれたクロードの言葉に涙が溢れてきた。エマニュエルとクロードと三人で固く抱き合った。
「ありがとう」
そう言って丞は自分の背を追ってきて栄光を勝ち取った後輩と、自分を追いかけて強くさせてくれた先輩の首に彼らのメダルを掛けた。
ふと軽くなった自分の胸元を見ると、それまで曇り空のような灰色にしか見えなかったメダルが銀色に輝いていた。
リンクから降りた丞は真っ直ぐとシンシアの前へ歩いていった。
「ありがとう、シンシア」
シンシアは泣き笑いで丞を抱き締めてくれた。
「私は今、最高に幸せよ」
「僕もだよ」
シンシアの首にメダルを掛ける。
「銀でごめんね」
「いいのよ。まだこれからも一緒なんだから」
シンシアに金メダルを掛けるまではまだ、あいつと金メダルを競い合っていたい。
そう思えたときには丞は次を見据えていた。
「シンシア、世界選手権で金メダルとってくるから」
シンシアは微笑んだ。その目から一筋の涙が流れた。
「それじゃあ、行きましょうか」
二人は歩きだした。
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