第43話 さぁ、行こう
その夜はあまり寝れなかった。普段なら大会前でもあまり緊張はしないのだが、今回だけはガチガチに緊張していた。焦りと不安が柚希に襲いかかっていた。
柚希は一晩中、何度もベランダへ出て寒さに身震いしながら部屋に戻るという行為を繰り返していた。
「ユキ、顔が固いわよ」
翌朝、柚希はスーザンに会うと同時に怒られた。それでも柚希を叱っているスーザンの目には心配そうな色が浮かんでいた。
太陽が登ってしばらくした空からは暖かな日の光が降り注いでいた。もちろん極寒だが。
柚希を見つめながらスーザンはしばらく考え込む。
「………ちょっと出ようか」
そう言ったスーザンに連れてこられたのは駐車場だった。
一見、普通の自家用車に乗せられて選手村を出発する。
「スーザン、時間……」
「試合に間に合えばそれでいいわ」
「え!?」
普段なら直前練習を何よりも重視しているスーザンがなぜ今日に限ってそのようなことを言うのか。思わず柚希は瞬きする。
「あんた、そんな顔で滑っていい滑りできると思ってんの? 今日のユキにはいつものように笑顔で滑り始めることなんてできないわよ」
そう言いながらスーザンは車を走らせていく。まるで行く当てがあるかのように。
(どこに行くのか決まっているんだろうな……)
「よし、撒けたわね」
スーザンが呟く。全く知らなかったがメディアか何かが後ろを追いかけていたようだ。
それからおよそ三十分。ようやくスーザンが車を停めたのはある一件家の前だった。木造りの三角屋根の建物である。
柚希も開催国についてはある程度調べてきたので知っている。この建物はシャレースタイルと呼ばれる家だ。山岳地帯に多いこの住宅の窓辺には手入れの行き届いた花が飾られていることが多い。
スーザンは車を停めた家に入っていく。後から家に入った柚希は目の前に立っている年老いた男性に挨拶をする。
「GutenTag.」
その人は優しい笑みでこちらを見ていた。そして、話しかけてきた。
「コンニチワ」
驚いた。スイスは公用語が四つある。しかし、日本語を話せる人はそれほど多くはないだろう。
「日本にいらしたことがあるのですか?」
「ワタシのハハはニホンジン」
ハーフということだろうか。柚希が納得して頷くと何故かその男性もちらりとスーザンを見ると頷いた。
そして、柚希とスーザンは奥の部屋へと案内される。
部屋の入り口で柚希は己の目を疑った。信じられなかった。パラリンピックの期間中にこんなサプライズが他にあるのだろうか。
そこには微笑んでソファに座っている丞の姿があった。
丞が立ち上がり、柚希の方へ腕を広げた。
「柚希ちゃん」
「…………た、丞くん!?」
「おいで」
柚希はそっと部屋へ入り、丞の腕の中に収まった。
「久しぶり」
「なんで……ここに?」
「一旦日本に帰ったけど、約束守れなかったから、せめてもうひとつの約束は守らないとって思って帰ってきた」
丞は笑う。柚希の目から自然と涙が溢れた。
「…………会いたかったです。……ありがとうございます」
「約束守れなくてごめんね」
柚希は首を振ることしかできなかった。
二人がそっと抱き合っていると、後ろからスーザンの大きなため息が聞こえた。
「クジョウくん、だから言ったじゃないの。こうなるから今会わない方がいいって」
「ごめんなさいっっっ!!」
スーザンの雷が落ちそうな雰囲気を察して、咄嗟に柚希は丞から離れ直立する。
スーザンが頭を抱えた。
「はぁ………まぁ、いいわ。もう十分なの?」
「はい!」
スーザンは柚希の顔を覗き込んでほっとした表情になった。
「表情は良くなったわね。そろそろ行かないと、遅刻するわよ」
「はい! 行きます!」
柚希が部屋から出ようとしたとき丞が声をかけた。
「柚希ちゃん!」
「はい?」
「これ、持ってて」
そう言って丞が手渡してきたのは一本のミサンガだった。赤とオレンジで編み込まれたミサンガの中心には薄いエメラルドグリーンの天然石がついていた。
「これは?」
「アマゾナイトっていう石だよ。迷いを取り去って幸運を呼び込む石なんだ」
パワーストーンなんてあまり信じてなかったけど、握っただけで、何故か全てがうまくいく気がした。
「ユキ、勝負のミサンガは利き足よ」
手首につけようとした柚希にすかさずスーザンから訂正が入る。
丞がパッと手に取り左足首につけてくれる。
「………利き足が左で良かった」
柚希が呟いた言葉は丞にしか聞こえなかったようだ。
丞がそっと微笑む。
「柚希ちゃん、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「また後で」
「はい」
柚希は丞とこの家の男性に一礼すると車に乗り込んだ。
「ユキ、行くわよ」
スーザンの言葉に柚希はひとつ頷く。
車が出発する。スーザンは真っ直ぐに試合会場へと向かう。
「まさか、こんなギリギリになるとは思ってなかったわよ」
「うふふ。あんまり話してないけどね」
「それでも会えて良かったでしょ?」
「あれはスーザンの計らいなの?」
「うーん。お互いかな」
「お互い?」
「まずはクジョウくんの言葉がきっかけだったの。さっきユキにも言ってたけど、昔二人で約束したことを守れなかったからもうひとつの約束は守りたいって。私は勝手にしたらいいって言ったのだけど……昨日の夜かかってきた電話でクジョウくんは柚希と一瞬でいいから話がしたい。話せなくても顔が見たいって言ってね。だから、あそこにいてもらったの。もしかしたらユキの緊張とか次第では行くかもしれないからってね」
「スーザン、ありがとう」
「いいのよ」
丞の無茶なお願いを大事な試合の直前に許してくれたスーザンが、自分にかけてくれている信頼を柚希は感じ取っていた。
(ここまでしてもらって負けるわけには行かないわね)
柚希の口元に挑戦的な笑みが浮かんだ。それは到着した日に空港で柚希が見せた笑みと酷似していた。
「ユキ、先はまだあるわ。とりあえず今日は今日の試合に全力で挑みなさいね」
柚希は一人で選手控え室へと歩いていった。そして、更衣室で着替えを済ませると赤と白のジャパンジャージを羽織り、軽く身体を動かした。
試合はどんどん進んでいく。柚希の出番ももうすぐだ。柚希は勢い良く立ち上がった。その時、栞奈と目が合った。栞奈は微かに微笑んだ。柚希は分かった。栞奈の拳がぐっと握られたことに。
『がんばれ』
無言の声援がそこには込められていた。
柚希も同じように拳を握る。
柚希の出番が間近に迫ってきた。柚希は歩き出す。
足元でミサンガのアマゾナイトが足に触れる感触があった。柚希はひとつ頷いた。
(さぁ、行こう。夢の実現に向けて。せっかくここまで来てくれた家族と友達とファンと、丞くんに向けて。最高の滑りをしよう)
柚希はスタート地点の上に立つ。真っ白な柚希が太陽に反射してキラキラと輝いていた。
スタートの号砲がなる。
柚希の人生最大の戦いが幕を開けた。
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