第5話 野球

 健吾は佐藤美穂と同じ私立高校に進学した。

 佐藤美穂は学業の推薦を受けて。

 健吾はスポーツ推薦を受けて。

 その私立高校は県内有数の進学校であると同時に、スポーツ強豪校でもある。同じ高校ではあるが、進学コースとスポーツコースに分かれてクラス編成がされていた。

 健吾は推薦の話を聞いたとき行きたいと強く思った。

 野球が好きだった。野球を失った時間を現実の生活に支配されるのも怖かった。そして佐藤美穂のことも心の奥底になかったとは言えない。


 朝帰りする母親を健吾は待ちわびた。母親はもうほとんど家に帰って来ない。

 ようやく帰ってきた母親は気怠く煩わしそうな視線を健吾に向けた。健吾は膝をついて懇願した。


「私立高校!? いったいいくらかかんのさ。そんなお金はないよ」


 入学金、授業料全額免除。部費も免除。ユニフォームなど用具代と通学費がかかるだけで、通学費もバスを使わなければかからない。幸い片道6kmだ。歩いても走っても通学できる。

 母親は面倒くさそうな顔をしながらも考えているようだった。


「まぁ、いまどき高校くらいは出といた方がいいか。でもウチにはお金がないからね、贅沢はできないよ。…野球かぁ、ま、やりたけりゃやればいいんじゃないの」

 

「ありがとう」


 健吾は頭を下げた。

 母親は満足げに頷くと、頼りない足取りで寝室に向かった。しかし寝室の把手に手をかけるとピタリと止まり、健吾を振り返った。片側の口角が上がり、半開きになった口許から歯が見えていた。


「でもあれだね、プロ野球選手にでもなったら何億と稼げるんだろ? そう考えるとなんだか楽しみだねぇ。宝くじ買うより確率が高そうで。あんた、やるからには頑張んなよね」


 ハハハハハッ、


 笑い声は寝室に消えていった。


* * * * *


 健吾の実力は本物であった。一年生ながら上級生からエースの座を奪いそうであった。

 相変わらず健吾は孤高であった。自分からは喋らないし、返事や掛け声でしか声を発しない。上級生イジメには遭わなかった。実力は圧倒的であったし、中学時代の『伝説』が知られていたのかもしれない。

 しかし野球部の監督は孤高の健吾を放置しなかった。彼は教育者であった。野球においても普段の生活においても、もっとコミュニケーションを取るよう強いた。

 健吾の中で野球が変わっていった。現実を忘れるための野球に、現実が忍び寄り侵食しつつあるように感じた。

 期待と責任に応える必要があった。最大限の優遇措置を受けこの学校に入学したのだ。入学していなければ今頃は野球を止め働いているはずであった。恩義を感じないわけにはいかない。

 野球を続けたいがために入った高校で、野球によって生々しい現実に直面した。健吾はジレンマに気が滅入った。

 そんな中、健吾には微かだが唯一の光があった。それを希望と言っていいのか、ただの楽しみと言っていいのか健吾にもわからない。

 佐藤美穂。

 彼女は高校でも吹奏楽部に入部していた。野球部の公式戦には吹奏楽部が球場まで応援に来る。そこに彼女の姿を見つけると、健吾は内側から自然と勇気が溢れ出てくるのを感じた。


 健吾は少しだけ変わった。

 彼の笑顔を目撃したという人が少しだけ増えた。


(つづく)


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