第23話 死んで残る悔いは何だ

 森村拓哉は驚愕に目を剥き必死に暴れて逃れようとしたが、健吾の188cmの巨体に乗られては小柄な森村に成す術はなかった。


「一番恐ろしい人間というのはどういう人間か知ってるか?」


 健吾は能面のような表情、怒っているような、微笑んでいるような、悲しんでいるような、楽しんでいるような、そんな表情で森村の目を見て言った。


「死ぬのが怖くない人間だよ。俺はいま死んでもまったく悔いがない。悔いもないし将来に対する欲もない」


 森村は暴れるのをやめた。暴れると鼻に突き立てられた割り箸が刺さりそうであった。


「お前はどうだ。いま死んでも構わないか」


「い、いや、」


「じゃぁお前の、死んで残る悔いは何だ」


「そ、それは、いろいろ、」


「いろいろとは」


「…もっと、人生を楽しみたい」


「お前の楽しみとは何だ」


「…か、金を稼いで」


「金を稼いで、それでどうする」


 チッ、森村拓哉は舌打ちをした。


「タワーマンションに住んで、高級車に乗って、銀座で飲んで、高価たかい腕時計を着けて、ゴルフして、海外旅行して、高級レストランで飯を喰って。なんだこれは! どういうつもりだ!」


「それだけか? よく考えろ。本当にお前の悔いはそれだけなのか」


「ああ、悪いか。金稼いで贅沢な生活がしたいと願うのが悪いことなのか!」


「悪くはない。お前が死んで残る悔いは、贅沢な暮らしができなかったってことなんだな。それだけなんだな」


「だからそうだって言ってんだろうが」


 健吾は立ち上がると森村から離れてテーブルに向かった。そして割り箸を放り投げたテーブルから『紙』を手に取って森村に向き直った。


「で、あれば、ここに署名し判子を押せるはずだ」


「はぁ?」


 上体を起こしていた森村が立ち上がり、その紙を見つめた。美穂の署名と捺印のある離婚届だ。


「お前が死んで残る悔いの中に、お前の妻と子供は入っていなかった。お前の生活の中に彼女たちはいない。なにを躊躇うことがある」


「はっ、それでめでたくお前が美穂とご結婚というわけか。立派な脅迫だ」


「脅迫しているつもりはない。勧めだ」


「嫌だと言ったら?」


「警察に行ってお前のDVと児童虐待を立証する。もうその手はずは整っている。そうなるとお前は困らないか?」


「……」


「お前、組のフロント企業(※)の顧問弁護士になるらしいな」


「なっ、だれがそんなことを」


「平田君。平田竜二君だよ。借金が返済されればお前と組は無関係のはずだ。なのに俺がお前に会いに行くといったら専務さんに揉め事は起こすなと念を押され、平田君を見張に付けてきた。なんでだろうと思うだろ、普通。それで平田君に訊いてみた。彼は素直な若者だ」


「……」


「お前は顧問弁護士にしてもらう手土産に彼女を売ろうと必死になったんだろうが、それももう叶わない。そのうえに警察沙汰でも起こしてみろ、フロント企業とはいえそんな奴を顧問弁護士として雇いやしない。だから揉め事を起こすなと専務は言った。まぁ俺には関係のない話しだが」


「ふっ、はは、ふはははははっ」


 森村拓哉が緊張感のない渇いた笑い声をあげた。無理して笑う真似をするとこういう声が出る。


「わかったよ、判子は押す。親権も美穂が持てばいい。ただしそれだけだ。財産の分与はしない。それが美穂の条件だったはずだ」


「そこまで俺は知らない。いまここでやれ。彼女にはこっちで届けてやる」


「それはご丁寧に。結婚式には花でもお贈りましょうか?」


「俺は名乗り出るつもりはない。彼女と接触するのは代理の人間だ。…お前がここまで非道ひどい男じゃなければ俺もこんなことをするつもりはなかった。借金を肩代わりするだけのつもりだった。お前が彼女に俺の名を明かす必要はない。むしろ明かさないで欲しい。これは俺の願いだ。強要はできない」


「じゃあいったい何が目的だ? 一千万も金を捨てて、お節介にも離婚の手伝いまでして。お前はどうしたいんだ」


「…俺は求められる人間じゃない。だから求めることもしない。…ただ、彼女が幸せに暮らしてくれればそれでいい」


「…ちっ、なんだよそれ。訳わかんねぇ。だけど正解だよ、それ。アイツと暮らしたら苦労するぜ」

 

 森村は健吾の手から離婚届を取るとソファーに座り、テーブルの上のゴミを薙ぎ払ってスペースを空けた。

 ゴミと一緒に落としたボールペンと印鑑を拾い直し、森村はすらすらと署名し捺印を済ませた。


「一緒に居ると自分が下品でセンスも要領も悪い無能な人間に思えてくる。アイツは何も言わない。愚痴ひとつこぼさない。黙っておれの無能ぶりを見て心の中で笑ってやがるんだ。ツンと澄ました顔で、甲斐性なしの旦那を立てるように見せながら。…おれはアイツの乱れる顔を見たことがない、クソッ」


「勝手なことを言うな。それが何の理由になる」


 森村は離婚届を健吾に突き出した。


「これでいいだろ。帰ってくれ」


「忘れるな、俺は恐ろしい人間なんだ。…二度と彼女に関わるな」


「はっ、それはお互い様だ」


 健吾は離婚届を森村の手から受け取り内ポケットに収めると、左手で森村の胸ぐらをつかんで立たせ右手の拳を後ろに引いた。


「な、なんだよ、な、殴りたきゃ…殴れよ」


 森村の声が震えていた。

 健吾は憤怒の眩暈をなんとか自制すると、全身にみなぎっていた力を抜いた。


「冗談だ。俺は弱い者いじめはしない」


(つづく)


(※)フロント企業

 企業舎弟。暴力団もしくは暴力団の準構成員が経営する会社で、その利益を暴力団に提供する役割を担う。

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