第24話 狡い女
離婚届を前にして佐藤美穂は声を殺して泣いた。
ひとしきり泣いた後、有難うございましたと彼女は長く頭を下げた。その声はまだ濡れていた。
猪熊は佐藤美穂にとってこれで本当に良かったのかわからなかった。確かに彼女は判を押した離婚届を森村拓哉に渡した。しかしそれをきっかけにもう少し話をしようと思っていたのではないのか。だとすれば健吾のやり方はあまりに発作的で、強引に過ぎた。佐藤美穂はこんな形で離婚届を得たことに納得をしているのだろうか。それが猪熊には心配であった。
「こんな形で本当によかったのでしょうか。私は彼が拙速にここまでやるとは思っていませんでしたし、そんな予定もありませんでした。あなたは夫を、美桜ちゃんはお父さんを失うことになります。本当はもう少し話し合いをされたかったのではありませんか」
「いえ」
うつむきがちだった佐藤美穂がこのときはきりっと顔を上げ、涙に潤んだしかし強い意志を感じさせる瞳を猪熊に向けた。
「私たちが本当に愛し合い信じ合えていたなら、森村の言うとおりの仕事を私はしていたと思います。でもそれができなかった。美桜のためにもと何度も思い返し堪えようとしました。でも、それも森村が美桜に手を上げた時点ですべてが壊れたんです。森村がだんだん私を疎ましく思うようになっていったのはわかっていました。でも美桜まで…」
「…では、納得されているんですね、この結果に」
「はい。なんとお礼を申し上げたら良いか。せめてお会いしてお礼を申し上げたいのですが。お金も少しずつでもお戻ししたい…」
「彼がそれを望んでいません。ただただあなたに平穏に、幸せに暮らして欲しいということだけを言っています」
美穂は少しうつむいた後、意を決したように顔を上げた。
「…野崎君」
「は?!」
「野崎、健吾君ではありませんか、その篤志家の方というのは」
「野崎健吾? なぜそう思われます」
「私は猪熊さんを存じ上げておりました。かおり、町田かおりさんから電話を貰って、NPO法人ブリッジの猪熊さんとおうかがいしたときにはまだはっきりとしませんでしたが、実際にお会いして思い出しました」
「思い出した? 私はあなたにお会いしたことが?」
「私たちが中学一年の時、野崎健吾君が校外活動でお世話になったのが猪熊さんですよね」
「え? それを覚えて…」
「その後も野崎君はブリッジさんでボランティア活動を続けていましたね。その関係で生徒会がブリッジさんにお邪魔したことがあります」
「あ、そういえば彼の中学の生徒会が見学に来ましたね。三人くらいで」
「はい。そのなかの一人が私です」
「そう、でしたか…」
「猪熊さんとブリッジで野崎君のことを思い出しました。それに町田かおりさんは野球部のマネージャーで野崎君と話をする数少ない女の子の一人です。だから野崎君なのではないかと」
「そうでしたか。そこまで言われると、否定のしようがないなぁ」
猪熊は頬の髭をザラザラと撫ぜた。健吾には口止めされていたがここまではっきり言い当てられると違うとも言いづらい。猪熊にしてもウソは言えない性格だ。と、突然、美穂がまた頭を下げた。
「すみませんでした」
「え? なんですか?」
「最初に猪熊さんが訪ねていらっしゃった時にもう、その篤志家の人物っていうのは野崎君じゃなかと思っていたのに、私、わざと確認しないで黙っていました」
「あぁ、そうか。で、どうして?」
「あの野崎君ならプロ野球選手になったし、助けてくれるんじゃないかと思いました。野崎君が匿名にしているのにはなにか理由があってのことだろうし、それを私が野崎君だってわかってしまったら、この話がなくなってしまうのじゃないかと思うと怖くて。…ひどいですよね。私は野崎君の好意に対してウソをついてました。自分のことばかり考えて…狡い女なんです」
プロ野球選手だからお金を持っているであろう。
匿名を見破ったら支援を止めてしまうかもしれないから黙っていた。
言葉にすれば確かにこ狡くて計算高いように思える。
しかし子供を抱え、夫から暴力を受け、望まぬ仕事を強要され、この逃げ場のない窮地にあっては許される範囲の狡さではないか。もしほんとうに狡ければ最後まで気づかぬふりをしていればよかった。
猪熊に嫌悪感はなかった。むしろバカ正直な人に思えた。バカ正直と言えば野崎健吾もそうだ。猪熊は思わず笑ってしまった。佐藤美穂はその笑顔を不安そうな目で見つめた。
「バカ正直ですなぁ、あなた方は」
(つづく)
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