第25話 会いたい

「彼が野崎健吾とわかって、それでも彼に会いたいですか」


「はい。会ってお礼を申し上げたいし、お金も…少しずつになるかもしれませんが、お返ししていきたいと思います」


「彼はそれを望んでいませんよ。あなたには助けられたという気持ちの負担を持ちながら、生きていって欲しくないと言っています。つまりはこの件は忘れろと」


「忘れられるはずがありません。負担、というより感謝の気持ちはずっと抱き続けると思います。私も美桜も。もしそれを私の負担とおっしゃるなら、返済をさせていただければその負担の気持ちも薄らいでいくかと」


「そうですか。…あなたが彼を健吾だと知ってしまったいま、私もお二人は会ってひとつのケジメをつけた方がよかろうと思います。あなたも落ち着かないでしょうから。それは彼に伝えましょう」


「ありがとうございます。よろしくお願い致します」


 佐藤美穂は深々と猪熊に頭を下げた。


「ところで、引っ越しはいつになさいますか? 一刻も早くここを出られた方がいいと思いますが。時間がかかりそうですか?」


「いえ、衣類だけですからほとんど身ひとつで出られます。ただ…」


「ただ? 新居ですか? まずはここを早く出ることを考えましょう。ひとまずご両親のもとに行かれるとか」


「両親はもう亡くなっておりますし、祖父母ももういません。私には身寄りがないんです」


「え、あ、それは失礼なことを」


「いえ。両親は私が小学校へあがる前に亡くなりました。阪神の大震災です。それで私は母方の祖父母に引き取られて育ててもらいましたが、その祖父母も昨年と一昨年に亡くしました。親戚づきあいのない家でしたから、親戚はいると思いますけど私たちが転がり込めるような付き合いのある人はいません」


「そうでしたか。…それでしたら私がお世話を、」


 猪熊の言葉を遮るようにして佐藤美穂が続けた。


「私が健吾君を覚えていたのは、小学校から同じ学校だったからとか彼がグレかけて印象に残っていたからというだけではなくて、彼の境遇が私と似ていたからです。彼のご両親は離婚され、お母様はいらしたけどほとんど家には居なかったと聞いていました。親がいない私たち。…健吾君はそれでも野球部で活躍してボランティアも続けていた。高校には推薦で入ってプロ野球選手にまでなった」


「ずっと見ていた?」


「はい。凄い人だなぁって。憧れというか励みになっていました。…自分もがんばろうと、負けていられないって。親のいないことを言い訳にはしないぞって、そう思いました。健吾君は…学生時代の私の心の支えだったのかもしれません」


「だから、会いたいと」


「いえ、それだからというわけではありません。少なくとも今回の件についてはきちんとお礼を申し上げたいのです。感謝を、私がどれだけ感謝をしているのかをお伝えしたい。そして、もし健吾君が嫌でなければお話しがしたい…。私は…何を話したいのか、何を訊きたいのかわかりません。でも、健吾君とお話しがしたい…」


「わかりました。それも彼に伝えましょう。ただ彼はお礼を言われたいのでも感謝を伝えて欲しいのでもなく、できればこの件はこのまま終わりにしたいと思っています。彼は少なくない金額をあなた方に支援してしまった。それがために彼があなたの言葉をそのままに受け取れるかどうかわかりません。それがあなたの負い目から出る言葉なのではないかと彼は心配するのです。彼があなたと会うかどうか、私にはわかりません」


 佐藤美穂はこくりと頷いた。そして猪熊の目を真っ直ぐに見つめる。


「はい。わかりました。…ただ、もし健吾君がそう考えているのなら、ひと言だけお伝えくださいますか。…助けていただいてこんな言い方をするのは酷いのですが、私は誰に限らず心まで売ったり買われたりするつもりはありません。私は…心にもないことを口にしたりは致しませんので、そこはご安心いただきたいと」


(つづく)

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