第26話 済ましておきたいこと

 猪熊は仕事で懇意になった不動産屋に頼んで、美穂母娘のため猪熊の自宅近くのアパートに一室を確保した。いざという時に駆け付けられる距離だし、バスを使わなければならないが最寄りの駅は都心へのアクセスも良い。まずはとにかくあの家を早く出ることが先決だと彼は考えた。取り敢えず美穂たちにはそのアパートへ一時的に生活を移してもらう。そのあとゆっくり他の物件を探しても良いし、そのままそこを契約してもらっても良い。

 佐藤美穂と美桜はたった四つの段ボール箱とともに引っ越してきた。ここは仮寓で他の物件を探しても良いと猪熊が言うと、美穂はここが気に入ったらしくすぐに契約をした。勤めは前に働いていた法律事務所が受け入れてくれたらしい。大きな法律事務所で託児所が併設されているという。


 猪熊はこれらのことを健吾に伝えた。もちろん美穂が健吾に会って礼を言いたいと願っているということも伝えていた。

 彼女は自分の責任と思うことを果たしたいと考えているだけだ。決して卑屈になっているわけじゃない。それを責任に感じなくてもいいから後は幸せに暮らせと人づてに言われても、彼女は納得しない。彼女はそんな無責任な人間じゃない。

 お前は彼女に無責任になれと言っているようなものだぞ。猪熊はそう健吾に言った。そして佐藤美穂が最後に言った健吾への伝言も伝えた。彼女は心にもないことは口にしないと言っている。彼女がそう言うのならそのとおりなのだろうと猪熊は思う。明確な根拠はない。ただ彼女はウソをつかない人だと感じていた。

 猪熊は会うほうが良いのではないかという口調で健吾を説得した。この二人が一緒になればいいのにという下心も、ないではない。

 健吾は佐藤美穂をいる。それは間違いないと猪熊は思う。いるのではない。なぜなら彼は美穂に何ひとつ求めないからだ。健吾はただただ美穂に無償の愛を捧げている。どうしてそうなったのか猪熊にはわからないが、現実にそんな愛のかたちが健吾に存在している。不思議だと思う。不憫にも思える。いや、それはお節介というものか。


 佐藤美穂の一件に目処がついてからというもの、健吾の表情は柔和になった。一時の険のある顔つきから憑き物が落ちたような優しい顔だ。無理もない。ヤクザの事務所に単身乗り込み交渉をしてきたのだ。それに一筋縄ではいかないであろうと思われた森村拓哉とも話しをつけてきた。どのような交渉をしたのか猪熊は詳しくは聞いていないが、しかしそのストレスは生半可ではなかったろう。

 佐藤美穂との邂逅を勧め続けていたとき、健吾はその柔和な顔を少し歪めて聞いていた。健吾はどのような心境であったのだろうか、猪熊には推し量ることもできなかった。


 わかりました、と健吾が言ったとき猪熊は安堵しそして嬉しかった。別に猪熊が嬉しがることはない。やはりキューピット的な下心が猪熊にはあったのだろう。

 ただし、と健吾は条件を付けた。都合がつくのなら町田かおりと猪熊も同席して欲しいこと。そして会うのは半年後くらいにして欲しいとのことであった。私的に済ませておきたいことがあり半年くらいの時間が必要だと健吾は言った。時間を延ばしてうやむやにするつもりではないのかと猪熊は疑ったが、健吾はウソはつかないと明確に否定した。


 ともあれ、約束は交わされた。

 猪熊はそれを佐藤美穂に伝えた。そのときのスマホからは彼女の喜色が伝わってくるようであった。


(つづく)

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