第27話 お鍋はいかがでしょうか
佐藤美穂と美桜の新しい生活は平凡な時を重ねていった。平凡がいかに幸せなことなのかを美穂は実感していた。
朝、目覚めて美桜の寝顔を少し眺めてから起き出し、少し遅れて起きてくる(美穂が起こすのだが)美桜と一緒に朝ごはんを食べる。バタバタと身支度を整え美桜の手を引いてバスと電車を乗り継いで職場に行く。美桜を社内の託児所に預けデスクにつく。そうして安心して仕事に取り掛かる。五時半に終業し美桜を連れて帰宅。途中でスーパーに入り買い物をすることもあるし、給料日にはちょっと寄り道をして美桜とケーキを食べに行くこともある。
もう入念に派手目のメイクする必要もないし慣れない左ハンドルの車を運転することもない。高級ブランドばかりで身を飾ることも、高級食材を選んで買うことも、わざわざ有名店でケーキを買うこともない。背伸びを強要されない平凡な暮らしは、美穂にとって幸せであった。
美穂と美桜は休みの日にときどき猪熊のオフィスを訪ねる。猪熊から月に一度は顔を見せて欲しいと言われたからだが、それだけではない。美桜が児童養護施設に友達を作ったのだ。オフィスに行くと猪熊が施設に連れて行ってくれた。美桜は友達と遊び、その間に美穂は掃除などボランティアの手伝いをした。
「お正月はいかがでしたか」
食堂のテーブルに猪熊と美穂は向かい合わせに座っている。美桜は友達と庭で遊んでいた。
「はい、久しぶりに何も考えずのんびり過ごせました。ぐうたらの寝正月です。おかげで太りました」
「そうですか。それはよかった、と言っていいのかな」
「ふふっ」
佐藤美穂がはにかむように微笑んだ。屈託のない笑顔が綺麗であった。
「遅くなりましたが、これ。お年玉です」
「え? いえ、そんな、困ります」
「なにもあなたが困ることはない。あなたにはあげません。これは美桜ちゃんにです。あとこれも。これは健吾からです。これはもしかしたらあなた宛てかもしれないが、これも美桜ちゃんのお年玉にしましょう」
猪熊は自分のジョークに悦に入りながら、二つのポチ袋をテーブルの上に置いて美穂の方へ寄せた。
「でも」
「じゃあ美桜ちゃんに直接渡しましょうか? ダメでしょう? だから美穂さん、預かってあげてください」
逡巡の後、美穂は低頭した。
「…すみません。お気遣いいただいてしまって。ありがとうございます。有難く頂戴いたします。あの、いま美桜を呼びますから。美桜っ」
「いやいや、呼ばなくていいです。お礼を言われるほど入ってませんから。恥ずかしくなります。」
猪熊が慌てて遮った。窓の外から美桜がキョトンとした顔でこっちを見ている。なんでもない、いいから遊んでいなさい、と猪熊が身振り手振りで美桜にサインを送る。美桜は小首を傾げたがまた遊びに戻っていった。
「すみません」
「いえいえ。ところで。健吾と会う件ですがそろそろいい時期かなと思いますが、あなたの方はいかがですか」
「ええ、私の方はいつでも都合がつけられると思います」
「そうですか。健吾は二月なら大丈夫だと言っています。それで調整していいですか。夜の七時くらいからどこかで会食するという形がいいかと思いますが」
「はい。猪熊さんにはご面倒をおかけして申し訳ありません」
「いえいえ、面倒でもなんでもありません。むしろ楽しいくらいですから」
「はい?」
「あー、いえ、同窓会のお手伝いをしている用務員のおじさん、ってカンジで楽しんでますから大丈夫です」
「ああ。あの、でも、ありがとうございます。それであの、ちょっとご提案なのですが」
「はい」
「どこかで会食というのはレストランとかホテルでということですよね。あの、よろしければ私のアパートでというのはいかがでしょう? ちょっと狭いですけど」
「あなたのアパートで?」
「ええ。アパートの場所や暮らしぶりを見ていただければ、健吾君も安心してくれるのではないかと。それに外で食べるとお高いですし…緊張します」
「なるほど! それはいいですね。グッドアイディアです。健吾もきっと安心しますよ。ありがとうございます。良いことを言っていただいた」
「それで、季節的にもお鍋なんかどうかなと。温かくなります」
「ますます良いですね! そうしましょう。大賛成!」
暖かくなる。身も心も。これなら時間も距離も一気に縮まりそうだ。猪熊はもろ手をあげて賛成した。見ると美穂の微笑んだ顔が、心なしか赤くなっているようにも見える。
――いやいや、オレの目に見たいように見えてるのかもしれない。オレはキューピットには向いていない。はしゃぎすぎて出しゃばらないようにしないと。
そう自分を戒めた猪熊だったが、その目尻は下がり頬は緩みっ放しなのであった。
(つづく)
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