第22話 森村拓哉
健吾が森村拓哉を見たのは高校卒業以来であった。
野球部の応援で吹奏楽部部長として溌剌と指揮を執っていた頭の良い好青年。それが健吾の覚えている森村拓哉の姿だった。
いま驚愕を顔面に貼り付け健吾を見上げているこの男は、森村拓哉の顔ではあったがもうその面影はない。
「森村拓哉だよな」
「え、あ、あの、あなたは」
「まず中に入れてくれ」
健吾は裸足で玄関外に飛び出していた森村を玄関に押し込み、後ろ手にドアを閉めた。
「上がるぞ」
「いや、え? え? ひ、平田さんは?」
「外にいる」
健吾はずかずかと居間まで進むと、ひとつしかないソファーに座った。
「そ、外に、え? じゃあ担当が変わったとか?」
森村は自分の部屋であるにもかかわらずおずおずと健吾の後を付いてきて、居間の入り口で立ち止まった。
「担当? 森村お前、俺が誰だかわからないか」
「へ?」
森村拓哉は訝し気に健吾の顔を伺った。怯えているのか居間の入り口に立ったまままだ動かない。目を細めそして小首を傾げる。わからないようだ。
健吾はふとテーブルの上に視線を遣った。カップラーメンの空の容器やビール缶、汚れたコーヒーカップに食器皿。その中に無造作に紙が広げられていた。健吾は少し身体を乗り出してその紙を見た。
『離婚届』
佐藤美穂の署名と捺印がされている。森村拓哉の署名は、ない。
健吾はその態勢のまま下から立ったままの森村拓哉を睨んだ。
「野崎だよ。野崎健吾」
「野崎、健吾? ……あ、野球の」
「そう、その野崎だ」
「え? その、それでなんで野崎君が…もしかして組員に?」
「違う。
「はぁ? じゃあ借金を肩代わりした変な男っていうのは…あんただったのか」
森村拓哉の表情が変わった。羊の皮の下には何が棲んでいるのか。
「礼を言わないのか」
「どういうつもりだ。おれは物乞いをするつもりはない」
「冗談だ。お前のためにやったわけじゃない」
「目的は何だ」
「俺の目的の前に、お前の目的はなんだ。なぜ彼女を売ろうとした。なぜそんなことができる」
「へっ」
森村拓哉がせせら笑いをした。
「なんだ、つまりは目的は美穂か。一千万で美穂を買おうとしたってわけか」
「そんなことは考えていない。俺はただ彼女が元の幸せな生活に戻ってくれたらいいと思っただけだ。溢れるほどの花を庭に咲かせ、クリスマスにはイルミネーションで家を飾っていたあの生活にだ。もし彼女が望むならそこにお前が居ても構わないと思った」
「嘘つけ。そんな理由で一千万も出すヤツがどこにいる」
「しかしそんな俺の期待も虚しいものになった」
「あいにくだがおれは美穂とは別れない。もし別れて欲しければ、ひぃっ、」
健吾はソファーから立ちると森村拓哉に向かって一歩踏み出した。後の言葉を飲み込んだ森村の咽喉から悲鳴が漏れる。
「お前はまだ俺の質問に答えていない。なぜ彼女を売ろうとした。なぜ彼女と子供を虐待した。なぜそんなことができたんだ。…お前と一緒に居ても彼女たちは幸せになれない」
「離婚しろと。おれを脅迫するのか」
「脅迫? これは脅迫になるのか」
健吾はテーブルの上に転がっていた割り箸を手に取ると、森村拓哉に掴みかかって仰向けに倒し馬乗りになった。森村の両腕を膝で抑え込み、二つに折った割り箸を鼻の穴に当てる。
「脅迫っていうのはこういうのだろ」
(つづく)
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