第8話 就職

 健吾は心と身体の99%を野球に注いだ。

 残りの1%は佐藤美穂の喜ぶ顔に胸を躍らせた。最後は泣き顔の彼女に胸を痛めることになってしまったが。

 夏の県大会は決勝で負けた。甲子園にはあと一歩で届かなかった。


 野球も終わった。高校も終わる。見通しの利く未来はこれですべてが終わった。あとは想像もつかない未知の生活が待っている。

 夏が終わってもプロ野球の球団スカウトが二、三人来ていたが、健吾は全く当てにしていなかった。プロに行って野球をするなんて考えたこともない。そんな未来があるはずはないのだ。甲子園に出て活躍でもすれば少しは考えられなくもなかっただろうが。


 ――どんな仕事をすればいいのだろう。俺に何ができるのだろう。


 野球以外何もしてこなかった。それがこれからはひとりで生きていかなければならないのだ。健吾には自信がなく不安に悩んだ。

 求人はそれなりにあった。しかしどれもどのような仕事なのか想像が出来ない。それは何も健吾だけではないだろうが、彼は何者にも守られることなく無防備に社会に出て、お金を稼いで、生活しなければならないのだ。不安は募りいつまで経っても拭い去ることはできなかった。

 健吾は猪熊に相談するしかなかった。


「金は儲からないが生活は出来る。オレ達と働く気はないか。お前なら彼らの境遇も不安も悲しみも、そして喜びも理解できるだろう?」


 喜びは理解できるかわからない。それに境遇が似てるからこそ自分だけが猪熊に、まんまとと就職をしてしまっていいものだろうかと健吾は思った。養護施設の彼らをしり目に特別な待遇を受けてしまって。

 その思いは猪熊には言えなかった。彼は不安と葛藤を抱えたまま落ち着かない日々を過ごした。季節は秋を迎えていた。


「明日、夕方から8時くらいまで学校に残ってくれるか?」


 野球部の部長先生と監督にそう言われた。


「知ってると思うが、明日はドラフト会議だ。指名されたときに備えてな、学校にいて欲しい」


 まったく忘れていた。いや、忘れていたというより気にしていなかったので、健吾はその日を知らなかった。いまはそれどころではないのだ。


「はい」


 無駄な時間だが就職相談室で求人を探していればいいか。健吾はそう思いながら返事をした。


 六位指名をコールされたとき、だから健吾は就職相談室にいた。廊下からバタバタとサンダルを踏み鳴らす音が聞こえ引き戸が乱暴に開け放たれたとき、健吾は学校が火事にでもなったのかと思い肝を冷やした。


「やった!」

「やったな!」

「すごいぞ!」

「おめでとう!」


 部長先生や監督、他の教職員が歓喜するなか健吾は作り笑いをした。

 健吾は冷静だった。

 嬉しくないわけではない。ただ、ホッとしたと言う方が正しかった。

 これで猪熊ので就職をしなくても良くなった。健吾はただそう思ってホッとしたのだった。

 健吾の就職はこうして決まった。

 

 

 契約金2,500万円

 年俸550万円


 球団からそう提示された。

 契約交渉の席には健吾、部長先生、監督、そして健吾の母親がいた。


(つづく)

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