第9話 訣別

 球団の人が帰ると健吾の母親が待ちかねたように口火を切った。


「この契約金とか年俸っていうのは、こんなもんなんですか?」


「こんなもん、とは?」


 部長先生が訝し気に母親を見た。


「これくらいが一般的な相場なんですか? 貧乏人だからって足元を見られてるとかないんですか?」


「あぁ、いやそんなことはありません。高卒の六位指名であればどこの球団でもこのくらいの金額提示になります」


「そうですか。ならいいですけど」


 ――プロ野球選手にでもなったら何億と稼げるんだろ?


 母親に野球推薦で高校に進学することを願ったとき、捨て台詞のように母親がそう言ったことを健吾は思い出していた。

 母は思ったより金額が少ないとがっかりしたのだろうか。健吾は気が重くなった。



 珍しく母が一緒に家に帰ると言ったその理由がわかった。

 一緒に帰ると家には知らないおじさんがいた。

 健吾の母親は、健吾の高校卒業を待ってこのおじさんと再婚すると言った。家に帰ってこなくなった理由は、このおじさんと半同棲をしていたためであった。

 健吾は驚かなかった。想定の範囲内だ。いまさらこのおじさんをお父さんとは呼べないかもしれないが、嫌悪感は全く感じなかった。できることなら仲良くやっていきたいとさえ思った。いや、そう望んだ。


「この家は健吾が使っていいよ」


「えっ!?」


 別々に暮らすということか? 実際には健吾は球団の寮に入ることになるから、当面一緒には暮らせない。寮のことなど知らない母親だが、それがなくても健吾とともに新しい生活を送る気はないらしい。


「ここはこの人の会社には遠いし、母さんたちは東京に引っ越すから。あんたはもう何千万も稼ぐ立派な大人なんだから独り立ちできるだろ? あたしたちの心配はしなくていいよ。健吾は健吾のやりたいことを自由に精一杯やりな」


「でも、契約金…」


「契約金? それはあんたがちゃんと持ってな。母さんたちは要らないよ。あたしはよくわかんないけど、厳しい世界なんだろ、プロ野球の世界ってのは。活躍できなかったらすぐに馘になるんだって聞いたよ。その時、お金がなくちゃ困るじゃないか。だからあんたが持ってな。無駄遣いするんじゃないよ」


 健吾は奥歯をぎりぎりと噛み締めた。

 これだって想定の範囲内だ。いや、少し越えたか。

 契約金をいくらか寄越せ、と言われると思っていた。全部寄越せと言われても健吾は素直に従うつもりだった。


 ――これは訣別の宣言だ。


 健吾はそう思った。血のつながり以外は断ち切ろうと母はしている。

 このおじさんはお父さんになるどころか、知らないおじさんのままになるのだ。

 契約金を寄越せと言って欲しかった。

 馘になったら帰って来いと言って欲しかった。

 喉の奥から何かがせり上がり、目には涙が溢れそうになったが健吾は堪えた。

 ひとりで生きていかなければならないことは予想してたじゃないか。

 予想が的中して現実になっただけじゃないか。

 

 ――ここで泣くのは違う。


 健吾はそう自分に言い聞かせていた。


(つづく)

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