Love story

乃々沢亮

第1話 母親のこと

 野崎健吾は佐藤美穂の前では不自由だった。

 体育もケンカもいたずらも先頭を切って暴れていた健吾も、佐藤美穂の見ているところでは電池の切れた人形のように静かになった。

 佐藤美穂が怒るわけではない。彼女はいつも物静かに行儀よくしている。かといって一人ぼっちというわけではなく、友達と楽しそうにおしゃべりもする。

 笑うと両頬に小さなえくぼができた。

 健吾は佐藤美穂が好きなのだ。

 小学二年生のこの年頃なら好きな女の子にちょっかいを出したり、いたずらをして気を引こうとするものだが、健吾にはそれができなかった。

 佐藤美穂はもっと遠くにいるような気がしていた。うんと偉い人の子供、たとえば校長先生の子供のような、自分が話してはいけないようなところにいる女の子だと感じていた。

 だってそうなのだ。健吾は毎日のように先生に怒られているが、佐藤美穂は先生に褒められているところしか見たことがない。

 健吾は佐藤美穂が好きだったが、それは憧憬といえるようなものだったのかもしれない。

 三年生になってクラスが別れてからは、卒業まで同じクラスになることはなかった。しかし休み時間や学校行事の時には、気が付くと健吾は佐藤美穂の姿を目で追っていた。彼女は見るごとに美しく快活な少女になっていった。健吾が美しいという形容詞を頭に浮かべるのは、このころ佐藤美穂以外にはなかった。

 

 健吾は地元の公立中学校に入学した。佐藤美穂も同じだった。だとしても自分には関係ないことだと健吾は思ったが、やはり嬉しかった。

 中学に入るとすぐ、健吾の家庭に事件が起こった。父親が何も言わずにいなくなった。母親と離婚したらしい。母親はいつも怒っていた。そして夕方になるとヒラヒラした服を着て家から出て行き、明け方ちかくに帰ってくるようになった。

 朝は母親を起こさないよう朝ご飯も食べないまま学校に行き、部活を終えて家に帰るともう母親はいなかった。

 健吾はひとりになる時間が多くなった。健吾はひとりで家に居ることに我慢が出来なくなり、夜の街を徘徊するようになった。健吾は身体が大きく夜目にはまさか中学生には見えなかった。

 夜の街では言い掛りをつけられケンカになることもあった。健吾は負けなかった。相手が二人でも三人でも逃げなかったし負けなかった。

 強ぇ奴がいる、と噂になった。健吾に近寄ってくる者もいたが彼は誰も寄せ付けなかったし、誰ともつるまなかった。


 目の前でドアが開きカラオケの騒音と女性の嬌声とともに、男女がもつれ合いながらながら出てきた。

 健吾は目を瞠った。だらしなく酔ったおっさんにしなだれかかっているのは、彼の母だった。

 健吾は見ていないふりをして通り過ぎようと思ったが、足が動かなかった。

 彼の母はおっさんの顔を両手で挟み、キスをした。


 ばいばーい。また来てよぉ。待ってるからね。


 彼の母はそう言うとよたよた歩くおっさんにヒラヒラと手を振った。

 手を振って向き直ったときに、健吾がそこにいることに気が付いたようだった。


 あら、


 唇はそう動いたが声は聞こえなかった。

 そして彼の母はニヤリと笑いドアの向こうに消えた。


 わかっている。

 健吾は思った。

 父親がいなくなり、生きるため自分を養うため母親は働いているのだ。

 わかっている。

 わかってはいるが、健吾は荒んでいった。


(つづく)

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