第19話 沈める

「森村は人が変わりました」


 森村美穂は淡々と話し始めた。美桜は泣き疲れたのか森村美穂の膝の上で眠っている。つむった目にまだ涙の跡が残っていた。


「借金の返済のために闇金融に手を出したようです。あっという間に金額が膨らんでいきました」


「なぜ借金を?」


「投資です。最初はまだ良かったのです。自分の小遣い程度の利益を出して喜んでいました。でもそれがいけなかったんです。元手をかければもっと儲かると言って、銀行から限度額いっぱいを借りて投資をしはじめました」


「それがうまくいかなかった?」


「損失分を諦めきれず闇金融からお金を借りて…。先物取引にまで手を出していたようです」


「借金を元手に投資で一気に稼ごう、と」


「やはり投資には失敗したようでした。去年の秋ごろから変な男の人たちが家に来るようになりました。それで初めて森村が闇金融からお金を借りたことを知りました。もうすでにコツコツと返せばどうにかなるという金額ではありませんでした。…私は覚悟しました。この家と土地を売って返済するしかないと。でも森村はそれは出来ないと言いました。そんなみっともないことは出来ない、親兄弟に泣きつくのもイヤだと…」


「……」


「今年に入ってからは変な男の人たちが頻繁に押しかけてくるようになりました。それでも最初は森村が追い返していたのですが、だんだんと抵抗できなくなってきたようで、ある日その男たちを家に上げてしまいました。暴力は振るいません。ただ…」


「…ただ?」


「あぁ、奥さんすごい綺麗ですね、と粘りつくような視線で私をめつけてきて。森村さん、綺麗な奥さんがいらっしゃるじゃありませんかって。私は悪寒に震えました。…それから数日後、森村がお前も働けと言い出しました。もちろんそのつもりはありました。前に勤めていた法律事務所が復帰を受け入れると言ってくれていましたのでそう言いますと、森村はそんなのじゃ足りないと」


「足りない?」


「もっと効率よく稼げる仕事があると言います。あの男たちが用意した仕事が…」


「つまり、風俗で働けと」


「…風俗なのかアダルトビデオなのか、はっきりとは聞いてませんが…」


 風俗嬢やアダルトビデオ女優が悪いとは言わない。人にはそれぞれ事情があり考え方があり価値観がある。仕事に貴賤を問うつもりは全くない。本人の意志次第なのだ。

 

「私は断りました。それは出来ないと。森村は何度もしつこく説得をしてきましたが、私が断るたびに彼は怒り狂うようになっていきました」


 猪熊は思う。ヤツら(この中に森村拓哉も含まれているのかはわからないが)は借金の返済だけが目的ではないのだろう。それ以上の『稼ぎ』を目論み、森村美穂を性産業に沈めようとしているのだ。そしてその先にはシャブ漬けが待っているのかもしれない。だから森村美穂の決断は正しい。


「それで暴力を振るうように?」


「…はい。先日にはとうとう美桜にまで手を上げて。それで…もうこれはダメだと、離婚をして欲しいと言いました。…美桜のお父さんでいて欲しかったし、どん底の苦労の最中に逃げ出すのは無責任だと思って堪えていましたが、美桜に手を…」


「離婚は?」


「美桜の親権だけあれば後はなにもいらないと私は言いました」


「彼はなんと?」


「財産を放棄すると言えば聞こえはいいが、借金から逃れたいだけだろうと言いました。夫婦である以上借金の返済には相互に責任がある。離婚は認めないと」


「暴力を受けてますね。警察や行政に相談はしましたか」


「いいえ。相談したことがバレてしまったときの報復が…怖くて」


 そうなのだ。この場合、逃げるのなら一気に逃げ切らなければならない。逃げ切れずに間が空くとかえって事態が悪化することがある。警察も行政もそして猪熊たち支援団体も、すべての事案にタイムリーに対応することは難しいのだ。

 最悪の事態になりつつある。もう時間は無い。

 猪熊は森村美穂を訪れた理由の本題を話し始めた。


(つづく)

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