第18話 佐藤美穂
先入観がなくてもこの家には何かがあった、と思わせる外観であった。
スタイリッシュな家の外壁には雨垂れの跡が筋になって染み込んでいる。
門扉を通ると庭の芝や花壇には雑草が伸び放題になっているのがわかる。かつては綺麗に整えられていたであろうことを思うと、やはり
どんよりと陰鬱な空からは今日も雨粒が落ちて来ていた。梅雨らしいジメジメとした長雨が続いている。
猪熊忠男は玄関のチャイムを押した。
ピンポーン
場違いに軽快な電子音が室内に響いているのがわかる。返答に間がある。おそらくカメラで訪問者を確認している。
猪熊忠男は胸に大きく『認定NPO法人ブリッジ』とロゴの入ったポロシャツを選んで着てきていた。これならカメラでもはっきりとわかるだろう。
『はい』
「NPO法人ブリッジの猪熊と申します」
『はい、いま開けます』
玄関ドアの内側から、チェーンを外しロックを解錠する音が聞こえた。
森村美穂は綺麗な人であった。
透けるような白い肌。化粧気のない小さな顔に黒目の大きな瞳。肩に届くくらいの黒髪のショートボブヘア。白無地でゆるやかな長袖のカットソーにベージュのチノパンというシンプルな恰好だが、清楚な清涼感を感じさせた。ただ、猪熊の目にも
猪熊は居間のソファーに案内された。
森村美穂はそのままキッチンに入っていった。お茶を用意しているようだ。
「あの、どうぞお構いなく」
「いえ、麦茶くらいしかございませんけれど」
森村美穂が麦茶の入ったグラスをお盆からソファーテーブルに置いたとき、前屈みになったカットソーの襟元が大きく下がり胸が見えた。そういう状況になると男というものは条件反射的にそこへ視線を向けてしまうものだ。悪気はない。
猪熊はドキッとした。それは胸を見てしまったうしろめたさだけではない。胸に大きな青痣が見えたのだ。それが外傷によるものなのか先天的なものなのかはわからない。
居間の奥の部屋から小さな顔が覗いた。森村美穂には五歳になる女の子が一人いることを、猪熊は町田かおりから聞いていた。
「こんにちは」
猪熊は髭ヅラを最大限にほころばせて女の子に声を掛けた。
「…こんにちは」
女の子はためらいつつもぺこりと頭を下げた。
「
「みおちゃんてお名前なの。良い子だね。あ、そうだ。みおちゃんにお土産を持ってきたんだよ。さぁ、どうぞ」
猪熊はバックからアニメキャラクターがプリントされたお菓子を取り出し、美桜に差し出した。児童養護施設には様々な子供がいる。この年頃の女の子が喜んでくれそうなものには見当がついた。
美桜はママの表情を目でうかがい、すぐに満面の笑顔になるとトタトタと猪熊に近づきお菓子を受け取った。
「ありがとう」
美桜がまたぺこりと頭を下げ、トタトタと嬉しそうに部屋に戻っていった。
「すみません、ありがとうございます。いただきます」
「いえいえ、そんな大層なものではありませんから」
ぱたん
美桜が転んだ。と同時に大きな声で泣きだした。大きな声、悲鳴に近い。絨毯の上だ。そんなに痛かったのだろうか。打ち所が悪かったのか? 変なかたちで手を着いてしまったのか? 猪熊はしかし若干の違和感を感じた。
森村美穂が美桜を抱き起し身体を確認している。
そのとき森村美穂の左袖が肘までたくし上がり、白い前腕の側面にくっきりと青痣のあるのが見えた。ちょうど何かの打撃から身を庇うために出した腕になら、こんな青痣ができるだろう。
猪熊はソファーから腰を上げ二人の元へ行き美穂の目を見た。美穂の両目からは涙が溢れている。
「みおちゃん、ごめんね、ちょっと見せてね」
猪熊は美桜の長袖のシャツとズボンをたくし上げた。
果たしてそこには青痣があった。
美桜はいま転んだのが痛かったのではない。
痛めていた所をまたぶつけてしまったから。
どうして痛めてしまったのかを思い出してしまったから。
だから泣いたのだ。
――これは、オレの仕事でもある。
猪熊は激しく憤りながら、そう思った。
(つづく)
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