第20話 篤志家
猪熊は借用の契約書と五百十五万円の受領書を森村美穂に差し出して、これまでの
「その人物は、あなた方にはこれとは別に、まだ闇金融からの借金が六百万円ほどあるとの情報を聞いたようですが。そうですよね?」
「…はい」
「それもすべて返済したいと言っています。ただ、どこの業者かまではわからなかったと。それを教えていただきたい。返済の手続きはすべてその人物が行いますし、返済完了後は今日と同様に私が受領書をお持ちします。そしてこの件に関しても返済の必要はなく、他に何かをあなた方に要求することもないと言っています」
「…そんなことが、あるのでしょうか…」
森村美穂は戸惑っているようだった。それはそうであろう。こんなに一方的にうまい話など普通はない。見返りは何かと疑って当然だ。
「私も驚きました。俄かには信じがたい話です。ですがその人物は私どもの団体との付き合いも長く信頼のおける人です。事実こうして受領書がここにあり、あなたにお渡ししています。その人物の気持ちを是非、信用していただきたい」
「その方の、その、目的は…何なのでしょうか?」
「それは私にもわかりません。とにかく普通の生活に戻って欲しいと願っているようでした」
「…なぜあなたを代理に」
「返済を肩代わりした人物を知ってしまうことで、あなたに負担を感じて欲しくないと言っています。恩義という負担を、です」
猪熊はそう言って少しヒヤリとした。ついあなたにと言ってしまった。あなた方にと言うべきであった。猪熊は慌てて話しを続けた。
「私については町田かおりさんからお話があったかと思いますが」
「ええ、リンちゃん、あ、いえ、町田かおりさんからお話しは伺っています。猪熊さんは信用できる方であることを私が保証すると」
「認定NPO法人ブリッジは実在しますし、そこに私、猪熊忠男という男も実在します。ネットで検索していただいても結構ですし、〇□警察署や市役所に問い合わせいただいても構いません。仕事柄、警察とも行政とも一緒に働いてますから顔見知りです。そうだ、あなたの都合のいい日と時間に警察署か市役所にご一緒して、人物確認をしていただいてもいいです。そんな私がもし少しでも変なことをすれば、即、これです」
猪熊は両手首を合わせて前に突き出した。
「ふふ」
森村美穂が初めて微かに笑顔を見せた。健吾ではないが、この人にはこんな笑顔が似合うなと猪熊も思った。
「教えていただけますね、業者名を」
森村美穂の顔から笑みが消え、また少し表情がこわばった。そしてしばらくの沈黙のあと森村美穂は深く頭を下げた。
「すみません、お言葉に甘えさせていただきます」
低頭して垂れたママの黒髪に鼻をくすぐられ、美桜が目を覚ました。
くしゅんっ
美桜のかわいらしいクシャミに、猪熊の髭ヅラの頬が緩んだ。
(つづく)
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