第32話 鍵

 猪熊は文机の前にあった座布団を脇に寄せ、座った。

 机の上にはライトスタンドの他は何もない。猪熊は長い抽斗ひきだしを引いてみた。中には便箋とトレーに入ったボールペンとシャープペンシルと鉛筆、そして消しゴムがひとつ。奥まで引き出してみたがそれだけだった。

 右の短い抽斗にはハサミとカッター、ボンド、メジャー(巻き尺)、20cmの物差し。

 文机の右下には他に三段の物入れがあった。一段目と二段目が同じで三段目だけが少し深さがある。一段目を引いてみる。彼の会社のパンフレットや就業心得と書かれた冊子があった。二段目には一万円札くらいのサイズの白い紙が束ねて収納されている。給与明細のようであった。盗み見をしたようで気まずい思いが湧き上がってくる。他にはなにも入っていない。三段目の把手に手をかけ引いた。開かない。見ると鍵穴があった。鍵が掛かっている。うしろめたさを感じる。しかしもう確かめずにはいられない。


 ――鍵は?


 もう一度ほかの抽斗の中を確かめる。やはり鍵はなかった。凝った場所に隠すなら探す場所はキリがない。一般的にはキーケースであろう。家に入るときにキーケースを持ってた。あれをどこに置いたろう。

 猪熊は立ち上がろうとして、背後に美穂とかおりがぴったりと身を乗り出すようにして座っているのに初めて気が付いた。美桜はローテーブルの向こう側で布団にくるまって寝ている。


「おっと」


「どうしました? 開かないんですか、その抽斗」


「そう、鍵が掛かってる」


「鍵?」


 かおりはそう言うとくるりと振り返り、ローテーブルの上にあったキーケースを取って猪熊に渡した。


「その中にあるかしら」


 自動車のキー、家の鍵、小さな鍵が二つ。ひとつはいかにも鍵らしい鍵。マンガで鍵を書けと言われればこんなのを書くだろう。猪熊はその鍵を三段目の抽斗の鍵穴に差し込んだ。心許ない感触だが捻ると手応えがあった。把手を引く。開いた。


 中には味気ない無地の大判茶封筒があった。少しだけ重い。中を覗くとさらに三つの封筒が入っていた。下に振って出すと厚みのある封筒がすとんと落ちてきた。開けてみる。


「んっ? 札束?」


 輪ゴムでくくられた一万円札の束。


「え?」


 背後の二人も声をあげた。

 折りたたまれた便箋が一緒に入っている。


『葬儀は不要。その他費用にはこれを使ってください』


 三人は息を飲んだ。どういうことだ? 健吾は自らの死を予見していたのか?

 

「いや、彼は身寄りがない。このくらいの準備はしていても不思議はない」


 猪熊は独りごとを言うようにつぶやいた。

 救いを求めるように猪熊は別の封筒を手に取り、開けた。


「慈来寺 永代供養墓生前契約書…? なんだ、これ?」


「…生きているうちに自分のお墓を買った、ってことですね。健吾君は」


 今度はかおりがつぶやいた。声が震えているように聞こえた。

 契約書の日付は去年の十月になっている。最近だ。去年の九月に健吾は美穂と会うことを了解した。半年後にという条件をつけて。この時期の一致は偶然か、それとも関係が?

 もう一つの封筒はA4サイズの封筒だった。猪熊は開けるのを躊躇った。封筒を持つ手が震えるようだ。


「猪熊さん」


 振り向くとかおりがうなずいた。

 猪熊は美穂を振り返る。

 美穂も蒼白になった顔を小さく縦に振った。

 猪熊は封筒から書類を引き出した。


『遺言公正証書』


 表題にはそう書かれていた。


(つづく)

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