第31話 帰宅

「私たちにも心当たりはありません。実は彼とは今日の七時半に会う約束をしていたのです。しかし、もし彼が直接こちらに向かおうとしたにせよおかしいのです。国道をそのまま走るのが最短の順路ですから」


「そう、ですか。なんでだろう? 運転をされる方ならおわかりになると思いますが、あの峠道は見通しも悪く道幅も狭くて危険です。当社としても悪天候や夜間には通行しないよう注意を促しておりましたが」


 三国がうつむいた。沈痛な時間が流れる。

 ひゅううう、と風を切る音がした。玄関の自動ドアに風が当たっているのだろう。外は雪が横殴りに降っていた。

 

 ――健吾を早く帰してあげなければ。


 猪熊はそう思った。


「三国さん、ご家族に連絡は」


「あぁ、それなんですが、彼の緊急連絡先には猪熊さんしか書かれていなくて。保証人も猪熊さんでしたよね。ご両親はいないと野崎君は言っていましたが」


「事情がありまして。では、私が彼を引き取っても良いですか。彼の母親には私から連絡をします」


「…はい。そうお願いできれば。…彼もその方がいいと…」


 そこで三国は絶句すると、立ち上がって頭を下げた。他の二人もそれに倣う。


「…お手伝いできることは何でも致します。お申し付けください」


「有難うございます」


 猪熊も立ち上がって頭を下げた。 

 

「ひとつだけお願いがございます」


 向き直った三国の瞳に光るものがある。


「ご葬儀の日程がお決まりになりましたらお教えいただきたいのです。我々にも…彼と最後のお別れをしたい者がたくさんおります。なので是非、是非…」


 三国の瞳から大粒の涙が雫となってこぼれ落ちた。


 ――健吾は、会社でずいぶん慕われていたらしい。


 猪熊は三国に何度も頷きながら胸を熱くした。美穂とかおりの嗚咽が静寂のロビーに響いている。


「健吾の…健吾の家に帰ろう」


 ここは寒くて暗い。一刻も早くここを出て家に帰してあげよう。

 猪熊はそう思った。



*****



 健吾を連れ帰り寝室に安置したときにはもう九時を少し回っていた。

 葬儀社の人たちはテキパキと立ち働き、明日改めてご相談にあがりますと言って吹雪の中を帰っていった。彼らに文句を言うつもりは微塵もない。こんな天候の中、迅速に対応してくれて感謝をしている。しかし彼らのその滞りのない動きを見ていて、猪熊は少し恨めしい気持ちが湧き上がってきてしまうのを禁じ得なかった。


 この家に健吾は生まれ育った。まず父親が去り、そして母親が去り、健吾はひとりでここに暮らしていた。

 必要最小限のものしかない簡潔な家だった。部屋は二つあったがひとつは健吾の寝室、もうひとつは何にも使われていない。居間には食卓に使っていいたのであろう小さなローテーブルとテレビ台に載った19インチほどのテレビ。あとは窓際に文机があるだけだ。写真や置物、装飾は一切ない。もう古い建物だと思われるが、掃除が行き届いていてきれいであった。

 

「健吾君っぽい」


 かおりがぽつりとつぶやいた。

 美穂がコクンとうなずき、そのままうつむいた。そのうつむいた先に、疲れて美穂の膝で眠ってしまった美桜の寝顔がある。


「さあ、もうこんな時間だ。二人とも帰った方がいい」


「猪熊さんは?」


 かおりが猪熊に顔を向けた。


「オレは残る。健吾を一人にしておくわけにはいかない」


 それに調べたい、と猪熊は思った。健吾はなぜわざわざ鳥越峠を通った? オレたちに会うつもりはなかったのか? 


「だったらあたしも残る。旦那には事情を話せばわかってもらえる。それに、こんな気持ちのままじゃ帰れないし」


「私も」


 佐藤美穂はうつむいたまま声を震わせた。


「佐藤さんは美桜ちゃんがいるし、一旦帰った方がいい」


「健吾君にお布団を借りてここで寝かせます。ごはんは…ごはんはコンビニに行けばおにぎりもあるし、私、私だけ、帰って、…私、健吾君を…」


「サトミ?」


「…だって、私、健吾君は、私、私が、会いたいって言わなければ…」


「なっ、なに言ってんの!」


 かおりが横から美穂を抱きしめた。


「やめてよ、変なこと言うの! 違うよ、違うでしょっ、ぜんぜん違う!」


「でも、でも…」


「でもじゃない! ぜんぜん違う。見当違いなこと言わないで!」


 佐藤美穂が健吾に会いたいと言わなければ…。健吾の名前が明らかにならなければ、健吾が借金の肩代わりをしなければ、健吾が美穂の家に行かなければ、健吾が美穂と会わなければ、健吾が美穂を愛さなければ…。そんなところに健吾が亡くなった原因を求めても答えは出ないし無意味だ。

 無意味だが美穂は知りたいだろう。そして、猪熊も知りたかった。町田かおりもそうだろう。こんな気持ちのままじゃ帰れないと彼女も言った。


 猪熊は抱き合って泣く二人の向こう、窓際に置かれた文机を見つめていた。


(つづく)

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