第30話 なぜ?

 ――車の鍵は。車の鍵はどこだったっけ?


 猪熊はバックを引き寄せると中をザラザラと探した。


 ――ない。どこだ? こんなときに。どこいった。


「…くまさん」


 ――車につけっぱなしか? いや、エンジンを切ってロックをして


「…のくまさん」


 ――くそぅっ、どこだ、


「猪熊さん!!」


「え」


「どうしたんです、猪熊さん! なんの電話ですか? 誰から? 健吾君がどうしたんですか! ちゃんと話してくださいっ!」


 佐藤美穂が猪熊の左腕に取り縋り大きな声を出した。


「あぁ」


 猪熊はバックを離し両手をズボンのポケットに突っ込んだ。


 ――あった。


 右手にキーケースを掴み確かめた。車の鍵だ。あった。


「猪熊さん!!」


「あぁ」


「健吾君がどうかしたんですか?」


 町田かおりが落ち着いた声で猪熊に訊いた。


「あ、あぁ、健吾が…事故に遭ったって。配送車で事故に。それで、いま、病院に運ばれて、重体で、それで、緊急、緊急手術をしてるって、会社の人から」


 二人が同時に息を飲んだ。


「重体…健吾君は、健吾君は大丈夫なんですか?」


「いや、わからない、まだわからないって。オレ、病院行ってくるから」


「私も行きます」


 かおりがバックを掴みダウンジャケットに袖を通した。


「私も」


 美穂は寝室に走った。


「美桜っ」



*****



 病院に飛び込み事務室で野崎健吾の手術室はどこかと訊くと、間もなく事務員が看護師を伴って戻ってきた。


「ご案内します」


 その看護師は静かに頭を下げると、猪熊たちの先に立って歩き始めた。

 エレベーターホールで地階のボタンが押された。


 案内されたのは手術室ではなかった。


 霊安室であった。

 


*****


 

 霊安室を出ると廊下に作業着を着た男が三人立っていた。

 入るときにもいたのだろうか、猪熊に記憶はなかった。


「猪熊さん、でしょうか」


 猪熊と同年代くらいの男が声を掛けてきた。聞き覚えのある声だ。


「はい、そうですが」


「やはりそうでしたか。私、〇□運輸総務部の三国と申します。先ほど猪熊さんの携帯にお電話いたしました三国です」


「あぁ」


「この度はどうもご愁傷様でございます。我々もびっくりして、残念で…」


「健吾君はどうして、どうしてこんなことに!」


 美穂が猪俣の背後から詰め寄るように三国に叫んだ。薄暗く沈んだ廊下に美穂の声が反響して消えた。


「はい。そのことも含め、少しお話しさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」




 三国と猪熊たちは一階のロビーにあがり、待合のソファーに座った。

 猪熊は呆然とする脳を懸命に励まし、三国に事情を聞いた。


「どこで事故に遭ったのですか。犯人はもうつかまったのでしょうか」


「いえ。追突とか接触事故ではないらしいのです。野崎君は鳥越峠で道路を飛び出し、10mの崖から滑落したようです。警察の調べでは他の車との追突や接触の痕跡はなかったと」


「ガードレールは」


「滑落した場所は直線の道路でした。そこにはガードレールがありませんでした」


「直線道路? 直線道路から飛び出したんですか? カーブを曲がり切れなくてではなく」


「はい。あの天候でしたから交通量も少なく、目撃者も発見されていないようですから、なぜ直線道路から飛び出したのか原因は不明らしいのですが…」


「警察はなんと?」


「動物が突然飛び出してきてハンドル操作を誤ったか、居眠り運転をしていたかではないかと。積雪のせいでブレーキ痕が判別できず、どちらとも言えないそうですが、いずれにしても事件性はないと判断したようです」


 ――嘘だろ? そんな事故で、あの野崎健吾が死んでしまうのか。あの健吾が。


 沈黙のなか、三国が申し訳なさそうに口を開いた。


「実はわたくしどもにも疑問がございまして。もしお心当たりがあればお知らせ願いたいのですが」


「疑問?」


「はい。なぜ野崎君は鳥越峠を走っていたのか、それがわたくしどもにはわからないのです」


「え? 配達の途中だったのでは?」


 三国はゆっくりと首を横に振った。


「野崎君からは配達終了の連絡が16時15分に入っています。最後の配達先は国道沿いにありました。そこから帰社するなら国道をそのまま西に進むのが普通です。弊社は国道沿いにありますから。しかし野崎君は途中右折して鳥越峠を通る道へ入っています。ご存じかと思いますがこの道は峠を越えると県道への近道になりますが、帰社するのに倍以上の時間がかかります。彼はどこに向かっていたのか。それがわからないのです」


 ――配達中ではなかった?


「集荷に向かったとか」


「完全に否定はできませんが、ほぼそれはないかと。ドライバーに直接集荷を依頼することはありませんし、野崎君からの連絡もなかった。集荷センターから野崎君に集荷指令を出した事実もありませんでした」


 健吾は帰社するつもりがなかったのかもしれない。直接自宅に向かうか、美穂のアパートに行こうととしていたとも考えられる。しかし、それでも変なのだ。自宅に向かうにせよ美穂のアパートに行くにせよ、やはり国道を西に真っすぐ走るのが最短距離で早い。しかもあの天候だ。わざわざ鳥越峠を通り県道へ迂回する利点はまったくない。そしてそれでは到底約束の七時半には美穂のアパートへ着かない。


 ――なぜだ。


 猪熊の頭にも疑問がわいた。おそらく佐藤美穂も町田かおりも同様の疑問を抱いたであろう。


 ――健吾は美穂のアパートに来るつもりがなかったのか? なぜ?


(つづく)

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