第33話 スウェードの靴
「正式なというか、公証人と証人の立会いのもと間違いなく作成された遺言。これは…相続に関する遺言だ」
「そうぞく? …ゆいごん?」
「金融資産の七分の四を佐藤美穂に、七分の二を猪熊忠男に、七分の一を町田かおりに相続するとある」
「なに、それ…」
これも日付は去年の十月になっている。
美穂もかおりも茫然としていた。それは猪熊も同じだ。
――なぜ、いま、遺言を。
封筒にはさらに三枚の紙が折りたたまれて入っていた。
『念書』と書かれた紙が二通。
それぞれ野崎信吾と松田久美子の署名捺印がある。遺留分放棄の念書とあった。法定相続人としての権利を放棄し、相続開始後に遺留分侵害額請求を行わないと記されてある。日付は一月三十一日。これは、たった二週間前だ。
そしてもう一通。これは健吾の自筆のメモであった。
『遺留分侵害額請求がされれば、この念書に法的な効力はない。しかし俺は信じる。親の義務を放棄しながら権利だけは主張するほど、この両名は悪人ではないということを。もし遺留分侵害額請求がされたときは、両名にこの念書を書き、署名捺印したときのことを思い出させるため、この手紙を彼らの目の前に突き出して欲しい。両名には権利はあっても資格はないのです。野崎健吾』
野崎信吾と松田久美子とは健吾の実の両親であったか。
健吾はこれまで両親についてほとんど語らなかった。恋しいとも憎いとも寂しいとも。健吾がただ淡々と事実を受け止めているように猪熊には映っていた。しかしそうではなかった。そう、やはりそんなはずはないのだ。健吾は傷ついていた。それをこんな形でしか吐露できなかった健吾を猪熊は痛ましく思った。
――健吾が私的に済ませておきたいこと、とはこのことだったのか?
しかしなぜこの時期に、この期間に、オレたちに会う前に済ませておきたいと思ったのだ?
葬儀の費用、永代供養墓、遺言、両親への叱責、鳥越峠、悪天候、直線道路での事故…。
――まさか…自殺? そんな馬鹿な。
三人の心にそんな思いがよぎった。
文机の前に座ったまま三人は沈鬱に濁っていくようであった。
――だとしたらなぜ? 動機は。
そんなにも美穂と顔を合わせたくなかったのか。そんなにも黒子に徹していたかったというのか。
そんなはずはない。猪熊は頭を振って否定した。
――こんな酷い結末を健吾が描いていたはずがない。他に原因があるはずだ。
猪熊は文机から離れ自分のバックを手に取ると、中からビニール袋を取り出した。そこには警察から返却された、事故当時に健吾が身に着けていた所持品が入っていた。
財布、腕時計、携帯電話。キーケースは家に入る時に取り出している。猪熊は財布を取り出し、中を検めた。数枚の札に小銭、運転免許証、健康保険証カード。病院の診察券はなかった。病気。彼は病気を苦にして…そう思ったが診察券は見当たらない。
――?
カードを入れるポケットに紙片が挟まっている。猪熊はその紙片を取り出した。四つに折りたたまれている。
「アオナカ紳士服…?」
「アオナカ紳士服って、紳士服チェーンのアオナカ、ですよね」
かおりと美穂も立ち上がり猪熊の持つ紙片を覗き込んだ。
「これ、預かり証じゃないですか?」
「預かり証?」
「スーツとかは裾上げとかの直しをしますから、後日受け取りに行きますよね。その時の引換証です」
猪熊の手から紙片を取りかおりがそう言った。
「健吾がスーツを作ったってことか」
「スーツかどうかはわかりませんけど。電話してみましょうか、お店に。十時まで営業って書いてあります。まだやってますよ」
そんなことはどうでもいい。猪熊はそう思った。いまはそれどころじゃない。猪熊は〇□運輸の三国に電話をしようと思った。健吾に病気はなかったかと。会社では健康診断を定期的に行っているはずだ。
「私が電話します」
美穂はかおりから紙片を受け取ると、そこに記載されている番号を入力し始めた。猪熊はなにかうんざりして苛ついた。美穂が現実から逃げているように猪熊には思えたのだ。
「あ、ちょっと伺いたいのですが」
相手が出たようだ。店はまだ営業していたらしい。美穂は通話をスピーカーに切り替えた。
「二月七日の土曜日に、野崎健吾という者がそちらでスーツか何かの買い物をしたかと思うのですが。こちらにその預かり証があって…」
「はい、野崎健吾さん、いらっしゃいました」
「え? 覚えてらっしゃるのですか?」
「ええ、覚えてますよ。だってプロ野球選手になったこの町のヒーローじゃないですか。レベルは雲泥の差ですけど僕も高校のとき野球部で、野崎さんとは県予選で対戦したことがあるんですよ。まぐれでヒットを打ちまして、それが僕の自慢なんです。だからよく覚えてますよ。憧れの人ですからね」
「ああ、なるほど。で、野崎さんは何を買われました?」
「え? あの、すみません、あなたはどちらさまですか?」
「私は佐藤美穂と申します。野崎さんの…友達です…まだ。あの、野崎さんは私の恩人で…」
サトミ、――かおりが美穂の腕を
「お友達ですか。野崎さんはどうかされたのですか?」
「野崎さんはちょっと出られなくて、代わりに私が預かり証を持ってます。私が受け取りに行ってもいいですか」
「預かり証があれば、はい。佐藤美穂様ですね、はい」
「それで野崎君は」
「ブレザーとスラックス、ワイシャツ、ネクタイ、スウェードの靴をお買い求めいただきました。あ、あとベルトも」
「スウェードの靴?」
「はい。最初カジュアルっぽいスーツを見立ててほしいとおっしゃいましたので、用途をお伺いしたらホームパーティーみたいな催しに行くのだと。そういうことであればスーツではお堅いのでブレザーをお薦めしました。他のものもそれに合わせて」
ホームパーティーみたいな…。
「十四日の三時までにできるかとのご要望でしたので、本日お待ちしていたのですがいらっしゃいませんでしたね。変だなと思ってたんですがご都合が悪くなったんですね。それで佐藤さまがお受け取りにいらっしゃると、そういうことですね、はい、わかりました。でも残念ですねぇ、もう一度お会いしてサインをいただこうと思ってたんですけどね」
「あ、ええ、すみません。では明日にでもお伺い致します。あ、お店はどちらだったかしら…」
「新田です。アオナカ新田店。県道と鳥越峠への道との交差点にあります。わかりますか? 明日お出ででしたら鳥越峠は通らないほうがいいですよ。危ないですから。今日もスリップ事故があったみたいですし」
佐藤美穂は通話を切ると二人の顔を見た。
(つづく)
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