第34話 泣かないでください
「健吾君は、やっぱり来てくれようとしていたのではないでしょうか?」
健吾はホームパーティーみたいな催しに出席するため、二月十四日に間に合うよう服などの一式を新調した。鳥越峠を通行したのはその服を受け取りに行くためだった。配達の終了が六時十五分。鳥越峠を通る最短ルートでアオナカ新田店に行き、そこで着替えてから鳥越峠を戻って佐藤美穂のアパートへ向かえば七時半にはギリギリ間に合いそうだ。
猪熊は玄関に行き下駄箱を開けた。そこには履き込んだスニーカーの横に新品のスウェードの靴があった。
猪熊は〇□運輸の三国に電話をした。すでに十時を回っていたが気が急くのを止められなかった。
「はい、〇□運輸の三国です」
猪熊は通話をスピーカーに切り替えた。
「猪熊です、猪熊忠男です。遅い時間にすみません。ちょっとお伺いしたいことがありまして」
「はい、なんでしょうか。なにかわかりましたか?」
「はい。実は野崎は服をアオナカ紳士服の新田店で新調しておりまして、鳥越峠を通ったのはそこに出来上がった服を取りに行くためだったと思われるのです」
「え? あの時間にあの天候の中をですか?」
「ええ。それでお伺いしたいのは、御社では近々に身なりを整えて出席するような、パーティーや表彰式といった催しを予定されていませんでしたか」
「近々での予定はないですね。それに慰労会や表彰式といった催しはありますが、ウチでは内勤と営業の者以外の正装は作業着です。我々はユニフォームと呼んでいますが。ですから少なくとも社内の行事で、スーツのような身なりを要求することはありません」
「ありがとうございます。それともうひとつ。彼の健康状態はどうだったでしょうか。会社として定期健康診断をなさっていると思うのですが」
「特に問題はなかったと思います。彼はドライバーですから健康チエックも毎日行っていたはずですし。えーと、少しお待ちください、いま健康診断書を。あぁ、彼は全くの健康体です。A判定しかありませんね。…ん? なぜ健康状態を」
「いや、もし大病を患っていて、それを苦に、その…」
「ああ、そういうことですか。であればその可能性はないと申し上げられます」
「ありがとうございます。夜分に申し訳ありませんでした。」
「いえいえ。で、そうするとどういう?」
「彼は服を受け取りに鳥越峠を通ってアオナカ新田店に向かった。おそらく店で着替えてから私たちのところへ行こうとした。そういうことだろうと思います。…彼の行動は御社としては服務違反かもしれませんが」
「いえ、そのくらいは何とでも。鳥越峠を通行した理由がわかって私としても助かりました。ありがとうございます」
通話が切れ居間には沈黙が流れた。
猪熊はほっとした気分であった。健吾の死は自殺ではなかった。そして自分たちに会いに来るつもりであったことが確信できたのだ。それで彼が事故を起こしてしまったのは悔やまれるが…。
「やっぱり、私が会いたいなんて言わなければよかったんです」
佐藤美穂がポツリとつぶやいた。虚空をさまよう目に涙が溢れ、こぼれ落ちた。町田かおりが美穂の背に手を当てゆっくりとさすってあげている。
「佐藤さん、泣かないでください。健吾が悲しむから」
猪熊は玄関の下駄箱からスウェードの靴を持って来ると美穂の前に置いた。
「見てください、このオシャレな靴。オレは健吾がこんな靴を履いているのを見たことがない。ワイシャツにネクタイ、スラックスにブレザー。そんな姿もです。彼は、あなたに会うのを楽しみにしてたんだ。でなければこんな格好はしない。好きな人に会うために、彼は身なりを整えようと、オシャレをしようと恰好をつけたんです。こんなこと、彼がするのは、初めてだ」
猪熊の声が濡れた。これ以上しゃべれば涙がこぼれる。
「それを、会いたいなんて言わなければよかった、なんて言われたら健吾がかわいそうじゃないですか。健吾はあなたに会いたかった。オシャレな恰好をして会いたかった。そしてあなたにいい印象を持たれたかった。…彼が、健吾が、人に気持ちを求めようとしたのを、オレは初めて…。…求めないアイツが、求めること諦めてるみたいなアイツが…」
自然と涙が溢れてくる。こぼれる涙はもうとめどがない。猪熊は堪えるのを諦めた。
「事故はあなたが会いたいと言ったこととまったく、まったく関係がない。だからあなたがそれを悔やむ必要はない。お願いだから、泣かないでください」
(つづく)
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