第35話 幸せ

 猪熊は胸の震えが落ち着くのを待った。


「健吾は両親の離婚で父親を失いそれ以降、母親との関係も希薄なものになった。理屈なしで愛してくれるはずの両親から愛を注がれなかった健吾は、グレた。それでも振り向かれなかった彼は、そこでもう愛されることも求めることも諦めてしまったようにオレには見えました。オレが初めて会ったとき彼は十三歳の少年でしたが、なにか諦観し老成した大人のようだった。笑顔も、ここは笑うところだと判断して機械的に表情筋を動かしてるだけのようでした。健吾は自分のために野球に打ち込んだし、人のためにオレのもとで一生懸命働いてもくれた。だが彼は評価を求めない。他人になにも求めないし無反応だ。ロボットが動いているみたいだった。オレは健吾を不幸な少年だと思っていました」


 猪熊は右の手のひらで両目をゴシゴシと擦った。佐藤美穂と町田かおりは真っすぐに猪熊を見つめている。

 猪熊は続けた。


「プロ野球選手を引退した時も、今の会社に就職した時も健吾はオレに報告に来てくれました。そんな時でも彼は淡々としていて無表情だった。そんな彼が血相を変えて佐藤さん、あなたを助けたいから手伝ってくれとオレのところに来たのです。健吾の感情的な態度にも驚いたが、その話にもオレは驚いた。多額の借金を匿名で肩代わりするその目的は何だ? そこまでして見返りを求めないなんて俄かには信じ難かった。彼はあなたが幸せに暮らせればそれでいいと言う。一貫してそれしか言わない。そんなことが本当にあるだろうか。…オレはあなたが女性であることに囚われていた。健吾の感情はある種の恋愛感情なのだと思っていました。ところが健吾はあなたに求めない。これは恋愛感情の奇形、変則形なのかと思ってオレはガラにもなく恋愛ってなんだろうなんて考えました」


 猪熊は片側の口角を少し上げてくすりと笑った。美穂もかおりもつられるように少し微笑んだようだった。


「恋は求めるもの、愛は与えるもの。そんなフレーズが頭に浮かんだ。でも所詮、人の心は愛すれば愛されたいと思うもの。恋と愛の違いなんてコトバ遊びに過ぎない、そう思ってふとオレは気が付いたんです。もしかすると健吾の愛は親が子に、子が親に注ぐ愛に似ているものなのかもしれないって。そう考えればある程度腑に落ちる気がする。と同時にそれが彼の生い立ちに関係するのであれば、たぶんそうだが、そう思うと悲しくもあった。それでもあなたの一件に目処がついてからというもの、健吾の表情は柔和になった。感情のある人間の顔をしていた。だから健吾が言い続けていた、あなたが幸せなら自分も幸せだ、っていうのがオレも信じられるようになってきていました」


 ――スウェードの靴。ずいぶんシャレ込んだじゃないか、健吾。オレだってこんな靴、履いたことないぜ。


「佐藤さん、健吾はあなたに会おうと決心して、大きく変わったんだと思います」


「え? どういう…」


 美穂がびくりとして目を見開いた。


「健吾はあなたを愛していた。そして僅かかもしれませんが、彼にはあなたへの恋心が芽生えていたのではないでしょうか」


 猪熊はスウェードの靴を手に取ると右の手のひらに載せ、目の高さにまで持ち上げて見せた。


「相続の遺言を作ったのも、もし仮にあなたと結ばれたとき、遺産目当ての結婚だとあなたが中傷されないようにと考えたからなのかもしれません。遺言を作成しておけば相続に結婚の有無は関係しませんから」


 ――オレは穿ち過ぎだろうか。そんことはないよな、健吾。その通りなんだろ?


「健吾がこんな形で亡くなったのは悲しいし悔しいし残念です。でも、健吾は不幸ではなかった。彼は愛する人を全力で愛し、そして恋をした。そのきっかけを作ったのは佐藤美穂さん、あなたですよ。野崎健吾は、幸せでした」


 喉の奥が震え、治まっていたはずの涙が再び溢れ出た。


 三人の嗚咽する声が、健吾のいなくなった居間にしばらくのあいだ響いていた。

 

 外の吹雪はもう収まったようだ。



*****



 葬儀は不要と健吾は言い残していたが、それは困ると言ったのが〇□運輸の三国であった。社員が納得しないし費用の心配もいらないからと、なかば懇願するように言われたので猪熊は葬儀を営むことにした。


 通夜の当日は雲ひとつない晴天であった。

 猪熊と町田かおりは佐藤美穂のアパートに集まっている。

 美穂が受け取りにいったのであろう健吾のブレザーとスラックス、そしてネクタイが、ハンガーに架かって窓のカーテンレールから吊るされていた。

 三人はテーブルでお茶を啜っている。猪熊の黒いスーツとネクタイが窮屈そうだ。外はだいぶ寒いのに額にはうっすら汗が滲んでいた。


「相続のことなんですけど」


 突然、佐藤美穂が切り出した。


「相続? やだ、サト佐藤美穂、そんな話、いましなくても」


「その話は落ち着いてからおいおい」


 そう言いつつこんな時に金の話を持ち出した佐藤美穂に、猪熊は少し嫌な気持ちになった。


「そう、おいおいでいいんですけど、私、猪熊さんのブリッジNPO法人ブリッジに全額を寄付しようと思って。あ、二枚だけはください。私と美桜の肌守りにしますから。残りは全部、寄付します」


「は?」


「それ、いいねぇ! あたしもそうする! だいたい頂いたところで健吾君のお金と引き換えられるモノなんてないしね。猪熊さんのところなら健吾君も怒らないでしょう。彼の遺志にもきっと合うよね。そうだ、あたしも一枚だけください。肌守りにします」


「ちょっと、待って」


 猪熊は慌てた。だいたい金額もまだわかっていないし、少なくても健吾は美穂の生活を心配して多くを遺そうとしたはずだ。


リンちゃん町田かおりが言うとおり、引き換えられるモノがないもん。猪熊さん、それでお願いしますね」


「いや、しかし、健吾の遺志もあるし、…おいおい考えて」


「おいおいでいいですよ。よく考えてくださいね、猪熊さん」


 美穂とかおりは顔を合わせてニコリと笑った。


「それからもうひとつお願いがあるんです」


「なんですか、次は」


「健吾君のそのブレザーとスラックスなんですけど」


 美穂は窓に吊り下がった新品のブレザーを見ながら言った。


ひつぎに入れてあげようと思っていたんですけど、私が頂いてもいいでしょうか」


「形見、ですか」


「ええ、それもそうですけど、受け取りに行って初めてこれを見たとき、健吾君に久しぶりに会えた、って気がしたんです。いまもこうして見ているとそんな気がします」


「わかりますが、でもですね、あなたが男物の服を大切にしているなんてわかったら、今後」


「もし今後、私が結婚をするようなことがあれば、それは私がこの服を大切にしている想いもひっくるめて、丸ごと私を愛してくれる人ということになります。私が健吾君を愛しているのかどうかは私にもわかりません。愛情と言うには私は健吾君を知らな過ぎますから。でも少なくとも健吾君への感謝と好意は一生忘れられないものです。私はもう健吾君と伴になければ幸せになれませんから」


「そう、ですか。であれば、私は構わないと思いますけど」


 ――そんな人が現れますかね。


 猪熊はすんでのところで言わずもがなのセリフを飲み込んだ。健吾も苦笑しているのではないか。そこまで言われれば彼も嬉しいに違いないが、このある種の律儀な頑なさが今後の彼女の幸せに影響しないか心配でもあろう。それは健吾の本意ではないはずだ。…しかしそれも仕方がなかろう。


 ――お前のせいだぞ、健吾。責任を持ってお前が美穂さんを見守れ。


 ハンガーに架かった真新しいブレザーとスラックスを見ながら、猪熊は心の中でそうつぶやいた。


 猪熊が残りのお茶を啜っていると三国からスマホに着信が入った。


『弊社からの参列希望者が百人を超えてしまいました。十数名の社員を応援に出しますので受付や交通整理に使ってやってください。宜しくお願いします。では、後ほど』

 三国はそう言うと慌ただしく通話を切ったのだった。


 ――健吾。やっぱりお前は、幸せだった。そうだよな、健吾。


(了)

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Love story 乃々沢亮 @ettsugu361

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