第12話 偶然の幸せ
二年が過ぎた。
健吾の肩書から『見習い』が取れ、彼はエリアドライバーを任されるようになっていた。
健吾は早出残業を厭わない。休日にも手を挙げて出勤した。仕事が特別好きなわけではない。だが健吾はそうしたかった。
一日を目一杯働き、家に帰って寝るだけ。そういう生活を健吾は続けた。そうすれば余計なことを考える暇もない。何のために生きるのか、目的は、目標は? 人生の大義は? そんなことを考えずに済む。
空いた日は時々猪熊に会った。会っても仕事や生活については多くを語らない。
「大丈夫なのか」
「大丈夫です」
もはや合言葉になった挨拶をかわし、健吾は養護施設の掃除などの雑務を手伝うのだった。
エリアドライバーを任されたといっても、まだ新米の域を脱してはいない。健吾は自宅周辺の土地鑑があるエリアの担当を割り当てられていた。
街路樹の桜並木がいよいよ満開になり、人々の目を楽しませるようになった四月のある晴れた日。健吾は配達中の信号待ちで、ふと右の住宅に目を遣った。
それは大きくはないが洒落た三階建ての住宅であった。新築らしい。おそらく建売ではなく注文住宅なのだろう、オリジナリティのあるデザインが目を引いた。カーポートには白いカローラがとまっている。
鉄製の門扉から玄関までのアプローチには淡いベージュのタイルが敷かれ、その両側には色とりどりのチューリップが二列に並んで咲いていた。庭にも名前はわからないがたくさんの花が咲き誇っている。
健吾の頬が思わず緩んだ。春の陽光にふさわしい幸せな風景だと思った。
玄関のドアが開いた。見るともなく見ていた健吾は、家から出てきた女性を見て目を瞠った。
――佐藤、美穂…か?
女性は玄関から出るとちょっとだけ四月の青空を仰ぎ、つば広の帽子を目深にかぶって庭の方へ向かった。
――佐藤美穂か?
信号が青に変わったのだろう、後ろからクラクションを浴びた。女性がびくりと肩をすぼめこちらを見た。反射的に健吾は顔を逸らした。配送車をスタートさせる瞬間、もう一度門扉の表札に目を遣る。
『森村』
――森村?
佐藤ではないのか…?
アクセルを踏み込み配送車を走らせながら健吾は思った。そしてすぐに記憶が繋がった。森村は佐藤美穂の彼氏の苗字だ。森村拓哉。吹奏楽部の部長。彼女と同じ大学に行き、大学を卒業するころには婚約していたはずだ。
予定どおり結婚し、彼女は森村美穂になったということか。そうだ、あの女性はきっと佐藤美穂に違いない。
ファッショナブルな新築の家、花の咲き誇る綺麗な庭。彼女は幸せな生活を送っているらしい。
――よかった。
期せずして彼女の消息を知り、彼女が幸せそうに暮らしているらしいことがわかった。
日々、なにも考えることなく生きていた漠とした心に、暖かな灯が生まれたような気持ちに健吾はなっていた。だからどうということではない。どうしようということでもない。
ただ健吾はそう感じたのだった。幸せそうでよかったと。
(つづく)
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