第4話 無駄な感情
人生の大義などと言われてもやはり健吾にはピンと来なかった。ただ猪熊のところには校外ボランティアが終了した後も、ときどき行って話をしたり仕事を手伝ったりするようになった。相談というほどのことはしなかった。近況を喋る程度だ。そのころ健吾の母親は家に帰らない日が増えていたが、それは言わなかった。
松宮先生は依願退職していた。健吾に言い放った言葉は多くの教職員も聞いており問題になった。松宮は謹慎処分を受けたのち、一度も生徒の前には姿を現わさず学校を去った。このことは健吾の評判を少し回復したようでもあり、同時に彼の学校伝説に凄みを付加したようでもあった。
健吾は野球部に復帰した。顧問の先生にも
健吾は野球が好きだった。野球をしている時だけはすべてを忘れることができたのだ。彼はピッチャーだった。身長はすでに180cmに達していた。夜の街で喧嘩に使用され敵なしだった立派な体躯が、今度は日の下で野球の能力を存分に発揮した。
健吾は孤高のエースと言われた。それは賞賛でもあり揶揄でもあった。彼は相変わらず学校には来ても野球以外は何もしない。話しかけられれば喋るが、喋り続けることはなかった。彼に友達はいない。そして作る気もない。
夜の街を徘徊するのはやめた。それは野球と猪熊のおかげであろう。母親のおかげでもあるかもしれない。夜の街でまた母親に会うのは厭だった。
健吾は中学三年になった。
母親はもう帰ってくる日の方が少なくなっていた。
最後の県の大会で野球部は優勝した。健吾のピッチングは校内はもとより県下、いや関東の野球関係者の目を引いた。
健吾は表舞台に姿を現わした。それでも彼はどこ吹く風とでもいうように相変わらずであった。
しかし。
全校朝礼で野球部への表彰があった。そしてそれとは別に生徒会から健吾に感謝状が贈られた。
健吾は朝礼台の上に引っ張り出された。感謝状を持っていたのは生徒会長の佐藤美穂だった。健吾は心の奥の疼きに動揺した。
やはり佐藤美穂は美しかった。見た目だけではない。生徒会の活動も、吹奏楽部の部活も、学年トップクラスの成績も、すべてが美しかった。こうして同じ学校にいて同じ朝礼台に立っているのが健吾には不思議に思えた。
佐藤美穂がマイクを通して感謝状を読み上げた。野球部での健闘と校外のボランティア活動が生徒たちに勇気を与えてくれたと。
佐藤美穂は読み終わるとマイクを離れ、健吾に感謝状を手渡した。そしてその時すっと健吾に顔を寄せ、彼にだけ聞こえる小さな声で言った。
「やっぱり健吾君ってすごいね」
それまで視線をさまよわせていた健吾は、思わず彼女の顔を見てしまった。たおやかな笑顔にえくぼが浮かんでいた。
――やっぱり? …彼女は俺のことを覚えていてくれたのか。先生を殴った不良というだけじゃなく、すごいと思ってくれたのか。
健吾の心の中の疼きが感情になって溢れた。健吾は佐藤美穂が好きだったことを思い出してしまった。それは思ってはいけない、思っても仕方がないと押し込めていた感情だった。
健吾は朝礼台を降りクラスの列の最後尾に並んだ。
朝礼台の上では学年主任の先生がなにか喋っている。
健吾は少し冷静さを取り戻した。そして押さえていた感情を思い出してしまったことを後悔した。
――それでも、彼女と自分は住んでる世界が違う。
そこは依然として変わらない。思い出さなければよかったと健吾は思った。
(つづく)
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