第10話 休日出勤のご褒美
「これで問題ないはずだ」
水村主任は、プリンターから排出されたコピー用紙をもどかしげにひったくると、じっとにらみつけるようにした。しばらくして、彼は俺の方へ親指を立ててみせる。
「どうですか?」
「バッチリだ」
俺は、心地よい疲労を感じつつ椅子にもたれた。結構がっつり働いてしまったが、結果につながるというのは嬉しいものだ。
「よし、お疲れ様。昼間の件はお手柄だったな、あの発見に助けられた。……あとは、俺がまとめておくから帰っていいぞ」
「いえ、手伝いますよ」
「いやいや、休日にいきなり呼びつけてしまったからな。ゆっくり休んでくれ。あと、今日の休日出勤の件は課長にうまく言っておくから。……まあ、最近は人事部がうるさいんだが、なんとかなるだろう」
「はは、なんとかなりますかねえ」
自信がありそうな表情を浮かべる水村主任に、俺は曖昧な笑顔で返した。
外に出ると、太陽はビルの林に隠れてしまっていた。だが、暑さは健在でアスファルトの地面を熱風が吹き抜けていく。
さて、これからどうしようか。せっかくの日曜日もあとわずかになってしまった。いや、逆に考えればいい。今日の出勤は本来の勤務だったと考えるのだ。そうすれば、むしろ早く帰れた方と言えるだろう。
どこかによって帰ろうかと駅前の店を眺めていると、スマホが振動した。真由ちゃんからのメッセージだった。
『お仕事はどうですか? 配達員さんは、まだ来ないみたいです』
珍しく仕事に集中していたので、彼女のことを忘れてしまっていた。そうだ、俺の部屋では女の子が来るはずのない宅配を待ってくれているのだ。急いで返信する。
『仕事は今終わったよ。これから帰るつもり。宅配便は今日は来ないかもしれないね』
メッセージを送信すると、すぐに真由ちゃんから返信があった。
『夕食はどうされるのですか? よければ、わたしが用意しますよ』
『そこまでしてもらうのは悪いから、適当に何か買って帰るよ』
『あっ、それは待ってください。実はも』
メッセージが変なところで途切れた。しばらく首をかしげていると、続きが送られてきた。
『実はもう、作っちゃったんです。すいません、遠山さんの都合も考えずに』
『なら、すぐ帰るよ。楽しみにしてるよ』
俺はスマホをポケットにしまうと、何気なく周囲を確認した。つい頬が緩みそうになってしまったが、不審に思われていないだろうか。幸い、通行人は俺のことなど気にせずそれぞれの目的地へと足早に去っていく。俺も、その流れに乗って駅へと向かった。
汗を拭きながらアパートに戻り、上機嫌でドアに手をかけようとしたところで周囲を確認した。待て、俺は周囲からは一人暮らしの会社員の男と認識されているはずである。なのに、部屋に女子高生が居たら、まさしく事件である。
俺はさりげなく周囲を確認した。廊下には誰もいないし、敷地の外も問題ない。決して浮かれてなんていないぞ、俺は気を引き締めつつドアに手をかけた。
「あっ、おかえりなさい。お仕事はどうでした?」
ジーンズにエプロン姿の真由ちゃんが、部屋から顔を出した。髪を後ろでまとめ、前髪には猫の飾りをつけている。なかなか可愛らしいが、余計に幼く見る気がする。ともあれ、出迎えてくれる人が居るというのは気分が良いものだ。
「無事に終わったよ。先輩の助けになれたし、休日出勤も意外と悪くなかったね」
「そうですか、良かったです。あっ、宅配便はまだ来ていません。買い物で少し部屋を離れましたけれど、不在連絡票などはなかったですね」
「そっか。今日は来ないかもしれないなあ。今度から、衝動的に注文するのは控えるよ。……これ、お土産というかお礼」
俺は、真面目に留守番をしていたであろう真由ちゃんに、謝罪の意味も込めて帰りに洋菓子店で買ったプリンを差し出した。
「わあ、おいしそう。……ではなくて、お世話になった上に、こんなものをいただくのは悪いです」
思わず、という感じで手を伸ばしかけた真由ちゃんだが、慌てて手を引っ込めた。
「実は、俺が食べたかったんだよ。通勤ルートにある洋菓子店でいつも気になってたんだけど、男一人でわざわざ買うのも抵抗があったんだ。それなりのお店で、一人分だけ買うってハードルが高いじゃない」
「ああ、言われてみればそうですね。遠山さんは、甘いものがお好きなんですか?」
「割りと好きな方かな。良かったら、一緒にどう?」
「はい、喜んでいただきます。……と、夕食の支度はできてますから、どうぞ」
真由ちゃんは、ぱっと明るい表情になったが、慌てて表情を引き締めるとごまかすかのように廊下の奥へと向かった。
6畳の部屋には、色とりどりの料理が並べられていた。大皿に豚肉の冷しゃぶが盛り付けられ、透明のガラス容器にはそうめんが涼し気におさまっている。お椀の中の赤いスープはトマトだろうか、汗をかいた身体に酸味が効きそうだ。
「おお、これは美味しそうだね。すごく本格的というか豪華だし」
「喜んでいただけて、よかったです。あとは、お口に合えばいいのですけれど」
俺は本気で感動していた。真由ちゃんは高校生だから、たぶん簡単な料理を作ったのだと思っていたのだ。それでも、十分にありがたいものなのだが、目の前の料理は想像以上だった。
だが、ふとした疑問に思い当たる。
「あれ、材料とかどうしたの? 結構、お金がかかったんじゃない」
「大丈夫ですよ。うちの部屋の冷蔵庫にあったものを使ったりしましたから、そんなにかかってないです。……それに、お世話になっていますから」
ふうむ、目の前の料理を見るかぎり、全ての食材がお隣の成瀬家の冷蔵庫に入っていたとは思えない。そういえば、真由ちゃんは買い物に出かけたと言っていたではないか。
だが、ここは素直にいただくのが良いだろう。彼女の性格からして、俺に世話なっているのを気にしているだろうから。……実際のところ、役立っているのはエアコンだが。
「じゃあ、遠慮なくいただいちゃおうかな。うん、休日出勤のご褒美としてはずいぶん豪華だ」
「どうぞ、どうぞ。たくさん食べてくださいね」
真由ちゃんは花が咲いたように、にっこりと微笑んだ。俺は、彼女の笑顔に誘われるように食卓についた。
良い具合に脂がのった豚肉を、レタスやスライスされた玉ねぎと一緒にポン酢でいただく。豚肉の旨味とシャキシャキした野菜が絶妙な調和をみせている。
「うん、美味しいね。お肉が美味しいから、野菜もどんどん食べられるよ。一人暮らしだと野菜不足が気になるから、これはありがたいよ」
「ふふ、喜んでいただけて良かったです。遠山さんは、普段の食事をどうされているのですか」
真由ちゃんは上機嫌ながらも、味を確かめるようにゆっくりと食べている。
「新型コロナウイルスの影響で外食はあんまりしなくなったから、お惣菜を買って帰るのが多くなったかな。たまには、自炊もするんだけどね」
「お店のお惣菜は便利ですけれど味付けが濃いことが多いですから、気をつけた方がいいですよ。……すいません、差し出がましいことを言ってしまいました」
「いやいや、いいんだよ。俺も気にはしつつも、人から言ってもらえないと楽な方へと流れちゃうからね。仕事帰りに半額のお惣菜を見つけて、つい買いすぎちゃったりするんだ。だからこそ、この料理は助かるよ。……ありがとう」
「ふ、ふえ……コホン、そんな、大したことないですよ」
俺が真面目に例を言うと、真由ちゃんは変な声を出して恥ずかしがった。うーむ、真面目な子なんだが、ときどき面白い反応をするんだな。
彼女は、照れているのか無言でそうめんの容器に箸をつけた。ガラスの容器には、白糸のようなそうめんだけではなく、細切りのきゅうり、錦糸卵、ハム、カニかまぼこがトッピングされている。これは地味に手間がかかるやつだ。
俺は、感謝しながらそうめんに箸をつけたが、彼女は何故かカニかまぼこだけを慎重に口に運んでいる。
「真由ちゃんて、カニかまぼこが好きなの?」
「ひゃっ、はい、そうなんです。でも、昔はカニかまぼこがカニで出来ていると勘違いしていて、恥ずかしい思いをしたんですよ。……うう、実は原材料がカニじゃなくてお魚のすり身だったなんて。だから、カニかまぼこが好きって言いづらいです」
「ああ、そういうのあるよね。でも、いいんじゃない。ヨーロッパの人もカニかまぼこが好きらしいよ」
「えっ、そうなんですか」
カニかまぼこを口に運ぼうとした真由ちゃんは、目を丸くした。恥ずかしがったり驚いたり、表情がコロコロと変わる。
「世界の人だって本物のカニを手軽に食べるなんてできないし、お肉よりヘルシーということで流行っているらしいよ。生産量は東欧の……リトアニアだったかな、そこが世界一だったような」
「日本じゃなかったんですね、意外です」
「ただ、かまぼこを作る機械は日本のメーカーが輸出したものを使っていたと思うよ。どこかの会社が、かなりのシェアを取っていたはず」
「遠山さんて物知りなんですね。ふふ、これでお友達にカニかまぼこが好物だって言っても、さっきの話をすれば笑われないですみます」
他愛のない会話ではあったが、美味しい料理もあって楽しい気分なった。こんな気分になったのは久々のような気がする。頭上では、エアコンが俺たちを見守るかのように静かに冷気を送り込んでいた。
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