第22話 二人で受験勉強
真由ちゃんが夕食に作ってくれた、とんかつを口に運ぶ。サクッとした衣の感触のあと、やわらかでジューシーな豚肉の旨味があふれてきた。
「うん、美味しい。いい感じに揚がっているよ」
「そうですか、良かったです」
「とんかつは、たまに食べたくなってスーパーで買って帰ることもあるんだけど、家で温め直すと今一つなんだよな。やっぱり、揚げたては美味いなあ。真由ちゃん上手なんだね、感心したよ」
「ふふ、大げさですよ」
真由ちゃんは謙遜しつつも、得意げな表情を隠しきれないようだった。最近気づいたのだが、彼女はリアクションが小さいものの、割りと感情表現が豊かなのである。今も、箸の使い方がどこか上機嫌な感じだ。
「今日のお仕事はどうだったのですか?」
「そうだねえ、課長からちょっとした課題をもらったけど、先輩に手伝ってもらってなんとかなったよ。おおむね、うまくいっているかな」
「良かったですねえ。お仕事の課題って大変そうですね。あう、わたしは数学で苦戦してます。ふう」
表面的な様子はあまり変わらないが、真由ちゃんはわずかにしょんぼりした様子である。彼女は塾には行っていないようで、独学で受験勉強をしているようだ。経済的な問題があるのかもしれないが、立ち入ったことなので詮索しないことにする。
「数学かあ、俺も昔は苦労したな」
かつての高校3年生の夏休みを思い出しながら、野菜サラダを口に運ぶ。シャキシャキした野菜とカニかまぼこがマッチしていて美味しい。俺なんて受験勉強があるから、と言って家の手伝いなどしなかったと思う。真由ちゃんはがんばっているんだな、とぼんやり考えるていると彼女と目が合った。
「ん、どうしたの」
「あのう……遠山さんて、もしかすると数学の問題とか、わかりますか?」
「えっ?」
思いもよらぬ発言に戸惑ってしまった。受験勉強なんて忘れてしまった、と答えようとしたが、真由ちゃんは期待に満ちた眼差しを俺に送ってくる。世の男性は女性から期待されると、つい大きな事を言ったりしてしまうらしい。そして、俺も男性という集合の中に含まれてるのだ。数学の集合って、こういうのだっただろうか。
「多少なら……わかるかもしれないな」
自信を持って言えないのが情けなかったのだが、堂々と言って出来ないよりマシである。そんな有様だったが、真由ちゃんは目を輝かせた。
「じゃ、じゃあ、ちょっと見てもらいたい問題があるんです。学校の先生に聞けばいいんでしょうけど、できれば早いうちに解決したくて……あっ」
勢い込んだ様子の真由ちゃんだったが、話の途中で急にトーンダウンしてしまった。
「よく考えたら仕事でお疲れですよね。なんだか、調子に乗ってしまって、すみません」
「いや、美味しいご飯でお腹が一杯になったから頭脳労働をして脳でカロリーを消費してもいいかな。役に立てるといいけど」
「やったあ……コホン、ありがとうございます」
真由ちゃんは可愛らしくガッツポーズをとって、すぐに照れてやめてしまった。なかなか面白い反応をする子である。
よし、ここは社会人として頼れるところを見せなくては。俺は、真由ちゃんが注いでくれた麦茶を飲み干した。
二人で夕食の片付けをしたあと、ちゃぶ台の上には分厚い問題集とノートが展開されていた。俺は、問題集のピンク色の付箋が貼られた部分を開いてみる。
「ええと……次の方程式を……解の範囲を図示せよ。うっ」
方程式やグラフを見た瞬間、脳が拒絶反応を起こした。同時に試験の苦い思い出が蘇って、嫌な汗が出てしまう。くっ、これはかなり難易度が高いやつでは。
真由ちゃんは、俺を信頼するかのような態度で静かに待っている。しまった、今までの話しぶりからすると彼女は勉強はできるタイプだ。その彼女がわからないのだから、難易度が高いのは当然である。
「えーと、これって答えと解説がついているよね。ちょっと、見せてもらっていいかな。……わからない、とかじゃなくて昔すぎて忘れちゃってね」
「だ、ダメですよ。暗記科目ならそれでいいですけど、数学はきちんと解き方を自分で考えないと身につきません。先に解き方を見ちゃうと、考えなくなってしまいます」
真由ちゃんは、別冊の解答集をすっと自分の後ろに隠した。厳しい態度だが、正論である。
「ええと、じゃあ真由ちゃんがわかるところまで解いてみてくれるかな。ブランクがあると、やり方が思い出せなくてね」
「はい、わかるところまでやってみますね」
白いノートに丁寧な字で方程式が展開されていく。俺はそれを凝視して、微分積分のやり方を必死に脳の記憶から引っ張り出す。
「ちょっと俺も紙に書いてやってみるよ。こういうのは、手を動かさないとね」
俺は冷や汗を感じつつ、適当な紙を引っ張り出してボールペンを走らせた。頭というより手が覚えているのか、自分で書いているとなんとなく思い出せてくる。これなら、なんとかなるだろか。
「遠山さん、そこ違いますよ」
「えっ、合ってる……はずだけど」
「いえ、正負の記号が逆になってます。プラスじゃないとおかしいはずです」
「あっ、見落としてた。ええと、どうなってるんだっけ」
真由ちゃんは、省略せず丁寧に方程式を解いていく。確かに、彼女が言っている方が正しい。
「ほら、こうやれば大丈夫でしょう。試験では制限時間がありますけど、丁寧にやらないと間違ってしまって、かえって時間のロスになります」
「うん。……あれ、これって問題が解けているんじゃない。あとは、グラフに図示するだけでしょ」
「あっ、あれ? どうしてでしょう。確かに、この問題で詰まってしまったんですけど」
「たぶんだけど、俺がやってるのを見て、客観的に問題を捉え直したとかじゃないかな。自分のミスはわかりにくいけど、人のはよく分かるってことがあるじゃない」
「岡目八目でしたっけ、第三者的な目線で見た方がかえってよく分かるっていう。ええと……意味はちょっと違うかな。あの、ありがとうございます」
俺がよく理解しないままに、真由ちゃんは問題を解いてしまったようだ。感謝はされたが、このままでは社会人の面子が危うい。
「ほ、他にわからない問題はあるの?」
「恥ずかしながら、いくつもあるんですよ」
「どれどれ」
問題文を読んでみたが、やはり計算してみないとなんともいえない。俺は、真由ちゃんの横に座り直してボールペンを走らせた。
二人で並んだ状態で、一冊の問題集を覗き込む。まるで高校時代に戻ったかのようだが、懐かしさにひたっていられるほど甘い問題ではない。
「あれ、分母の方にルートがあるときはどうやって有理化するんだっけ?」
「それはですね……」
「待った、自分で思い出すから。確か……」
口を出したくてうずうずしている真由ちゃんを制止して、なんとかやり方を思い出す。くっ、過去に苦戦した数学で、社会人になってからも苦しめられるとは。
「よしよし、カンが戻ってきた。これさえわかれば、答えは……」
「わっ、すごいです。そうやれば良かったんですね。わたしも、負けないですよ」
真由ちゃんに数学の問題を教えるはずが、いつしか一緒に問題を解くようなことになっていた。数式に拒絶反応を起こしていた脳も、いつしか試験問題に挑むモードになっている。習慣とは大したもので、問題集を見てペンを握れば頭が問題を解こうと勝手に動くようだ。
「むっ、この問題って解けるのかな。答えを導き出すには、何かが足らないような気がする。問題文が間違っているとか?」
「それはないですよ。わたしも、同じことを考えましたけど、これは某大学の過去問ですから」
「そっか。なら、まずは無難に式を整理していって……いや、これだとうまくいかないのか」
「わたしも、同じようにやったんですけれど、途中で詰まってしまうんですよ」
二人して首を傾げる。過去問か、問題集に収録されるぐらいだから、極端に難易度が高いとか時間がかかってしまうようなものではないと思うのだが。何か見落としがあるのだろうか。
ノートに式を展開していた真由ちゃんの手が止まっている。俺から見ても、スタンダートというか正攻法でやっているのだが。
「待てよ、いかにもこのままやってくださいって形だけど、ここを先に移項したらどうだろう。遠回りにみえるけど……」
「えっ、でも、そんなことをしても……あれ、解けますね」
真由ちゃんが、サラサラとシャープペンをノートに走らせ。複雑な式から、シンプルな答えを導き出した。
「やりました。ちょっとした引っ掛け問題みたいなものですね」
「そうだね。最初に全体をよく見ていれば、気づけるようになってるみたいだね」
「ふう、これで全部です。ありがとうございました」
パタンと問題集を閉じると、真由ちゃんはぺこりと頭を下げた。
「役に立ってたら良かったんだけどね。思ったより忘れてしまってたよ」
「遠山さんのおかげですよ。その、解き方だけ淡々と教えられるより身についた気がしますし……なんだか楽しかったです」
「うん、俺も学生時代に戻って同級生と受験勉強したみたいで楽しかったよ」
何気なく言ったのだが、だんだんと恥ずかしくなってしまった。問題を解き終えたせいで、気分が高揚してしまったのかもしれない。
「同級生ですか……遠山さんと同級生だったら、楽しい学校生活になりそうですね。ふふ」
真由ちゃんは、嬉しそうに笑った。親しみのこもった自然な笑みで、なんだか妙に意識してしまう。
いかん、社会人たるものこのぐらいで動じてはならないのだ。俺は、気分を変えようと立ち上がった。
「そうだ、お土産を買ってきたのを忘れてた。勉強のご褒美ってことで一緒に食べよう」
「わあ、嬉しいです。お土産は何でしょうか? あっ、わたし、食いしん坊じゃありませんよ」
「わかってるって。駅前の洋菓子店でザッハトルテを買ってきたんだ。一度、食べてみたかったんだよね」
「ふえっ、ザッハトルテですか。有名なチョコレートケーキですよね、た、楽しみです」
名前を聞いたとたん、真由ちゃんが目を輝かせた。やはり、甘いものに目がないようだ。
真由ちゃんにザッハトルテを切り分けてもらい、濃厚なチョコレート味を存分に楽しんだ。美味しい、を連呼する彼女を微笑ましく眺めながら、幸せだなと脈絡なく思ったのだった。
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