第23話 急展開

 平日の仕事を乗り切り土曜日がやってきた。別に仕事がつらいというわけではないが、社会人にとって休みというのは良いものなのである。


 俺はエアコンの効いた部屋で、真由ちゃんと朝食をとっていた。食卓に並んでいるのは、彼女が早朝からお店に買いに行ってくれた焼きたてパンである。


「おお、焼きたてのパンって美味しいんだね。味が良いのはもちろんとして、こうばしい香りがすごくいいね」

「朝早くから起こしてしまってすいません。今日がお得なセールの日っていうのを思い出したら、大人しくしていられなくって」

「いいよ、おかげで美味しいパンを食べられたし、貴重な休日を寝て浪費しなくてすんだからね」


 サクサクとした歯ざわりのクロワッサンを口に運びながら、買ってきてくれた真由ちゃんに感謝した。朝食はいつも簡単に済ませている自分としては、休日の朝から美味しいものが食べられるのは優雅な気分になれる。


「こんな美味しいパンを売ってる店があるなんて、全く知らなかったなあ。真由ちゃん、すごいね」

「いえいえ、ちょこちょこお店をリサーチするのが趣味みたいなものですから。このあたりって、目立たないけど良いお店がいっぱいあるんですよ」

「へえ、機会があれば案内してもらいたいなあ。……いや、近所は人目がマズイし、真由ちゃんの受験勉強の邪魔をしちゃ悪いな」


 俺は、うっかり口走ってしまった言葉を慌てて打ち消す。いかん、この状況に慣れ過ぎて警戒が緩んでいるぞ。真由ちゃんは、そんな俺をみてクスリと笑った。


「そうですね。案内は……問題がありそうですけれど、場所を教えるぐらいならできますよ」

「おっ、いいね。今日の休暇はそれを参考に、受験生に差し入れを買ってこようか……」

「あっ、電話が」


 会話の途中でスマホを手に取った真由ちゃんだが、画面を見るなり真顔になった。


「……お母さんだ」


 俺は黙ってうなずくと、真由ちゃんから距離をとる。彼女も一度俺の方を見て、軽くうなずいてみせると電話に出た。


「……もしもし、えっ……そ、そんな急に……」


 礼儀として通話内容を聞かないようにしていたのだが、真由ちゃんの戸惑ったような様子が伝わってくる。一瞬、お祖母さんに何かあったのかと想像したが、どうやら違うらしい。


「……う、うん。いいけど……今からなの……ええっ? もう出てるの」


 何だろう、悪いことがあったわけではないようだが。


「……うん、わかった。ええと……どのぐらいに……う、うん。じゃあ、また……」


 通話を終えた真由ちゃんは、スマホをちゃぶ台に置くなりため息をついた。俺は離れていた位置から、ちゃぶ台の近くに座り直す。


「何かあったの?」

「お母さん、帰ってくるみたいなんです」


 真由ちゃんはそう言って、再びため息をついた。



 俺は、ぼんやりと彼女の言葉の意味を考えていたが、次第に頭が回転し始めてくる。


「帰ってくるって、いつなの? お祖母さんの件とは関係あるのかな」

「あっ、すいません。きちんと説明しなくちゃいけませんね。祖母の件は、落ち着いてきているようです。ただ、しなくてはならない手続きなどは沢山あって、そのための書類なんかを取りに帰ることにしたってことです。……もう、それなら昨日のうちに言ってくれればよかったのに」


 真由ちゃんは、そう言って頬をぷくっと膨らませた。彼女にしては珍しい不服そうな表情である。


「そっか。でも、お祖母さんの件が落ち着いてきたってのは良かったね」

「はい。すごく心配してたので、本当に良かったです。その、入院前と同じように生活するのは難しいかもしれないみたいなんですけど。でも、とにかく安心できました」


 今度は、さきほどとは打って変わって安堵の表情である。祖母の件は、俺も良かったと思う。だが、それとは別に確認しなくてはならないことがあった。


「ところで、お母さんが帰ってくるのっていつになるの? なんだか、慌ててたみたいだけど」

「ああっ、そう、それでした。それが、もう車に乗っているんですよ。どこかで休憩した時に、かけてきたみたいなんですけど。ええと、別に用事があるから一時間か二時間ぐらいで着くって」


 俺は素早く頭を働かせて、やるべきことを懸命に考える。実家のあれこれで疲れた主婦がアパートに戻ったら、娘が隣室の独身男性の部屋に居た、というのは考えたくないシチュエーションである。これには理由があるのだが、お母さんにとっても俺にとっても不幸な事態が発生しかねない。誤解だと言っても、通用しないだろう。


「ええと、お母さんが帰ってくる前に真由ちゃんが部屋に戻るのは当然として、証拠というか痕跡みたいなものが残っているとマズイな。何か持ってきてたっけ?」

「あっ、お鍋とか調理器具を持ち込んできてますね。あう、他にありますね……。ええと、ええと」


 真由ちゃんが、この部屋で生活するようになってから彼女は色々な物を持ち込んでいた。最初は、必要になったら取りに行くというスタンスだったのだが、面倒なのと目撃される可能性を減らすためにこっちの部屋に置きっぱなしにしていたのである。


「それらを戻すとして、あとは話を合わせておかないとね」

「話? な、なんの話でしょう」


 真由ちゃんは、そわそわとして落ち着かない様子である。彼女もだんだんと状況が飲み込めてきたのだろう。


「エアコン関連の話だね。調子が悪くなって真由ちゃんが俺に相談したってわけだけど、俺が部屋まで上がって現物を確認したのか、話をしただけなのかってあたりだね。食い違いがあると、変に疑われるかもしれないし」

「そ、そうですよね。ええと、部屋に来てもらったことにした方がいいのかな。あう、それはお母さんがよく思わないかな……あう」

「芳江さんに話した件もあるよね。芳江さんは話し好きだから、たぶんお母さんと話をするでしょ。真由ちゃんに、エアコンがアパートの備品か確認してもらったときに何を話したかってことも考えないと」

「あうあう、あのときは遠山さんにエアコンを見てもらったって話をしたような、しなかったような。……抹茶プリンを持って行って……うう、しっかり思い出さないと」


 俺も芳江さんとの会話を思い出しながら、何か見落としがないか考える。焦っている様子の真由ちゃんを見ていると、逆に落ち着いてきた。


「時間はあるから、冷静にいこう。まずは、荷物を戻すところから始めよう。これについては、言い逃れができないから」

「はっ、はい。そうですね。あっ、お部屋の掃除もしておかないと」


 朝食を中断した俺たちは、ここしばらくの同居生活の痕跡を隠す作業に取り掛かったのだった。




 隠蔽作業が終わると、真由ちゃんは隣室へと引き上げていった。向こうの部屋でもやることがあるらしい。だが、それを俺が手伝うわけにいかないので、急に手持ちぶさたになってしまった。

 ちゃぶ台の上のクロワッサンを一口かじってみる。これは、片付けが終わって中断した朝食を再開したところで、お皿が真由ちゃんの家の物だと気づいて大慌てしたものなのだ。今は、味も素っ気もない俺の皿にのせられている。


「……落ち着かないな」


 インスタントコーヒーを淹れ、真由ちゃんが置いていったパンの残りを口に運ぶ。暑さは少しはマシになったようだが、大丈夫だろうか。彼女は、窓を開けて扇風機を回しておけば午前中はしのげると言っていたが。まあ、この機会に母親に話しておけば対策してくれるだろうし、母親が実家に戻ってから、この部屋で涼んでもらえば良いだろう。

 心配することは、ないはずなのだ。


 俺は落ち着かない気分を紛らわすために、スマホを手に取った。ゲームをしたりニュースサイトを閲覧しているうちに、外から車のエンジン音が聞こえてきた。

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