第21話 新しい生活

 会社が休みになった火曜日の出来事から、俺と真由ちゃんの関係は少し変化したように感じられた。


 彼女は今までのように極端に遠慮するということはしなくなり、エアコンの効いた部屋を活用してくれているようだ。礼儀正しいのはそのままだが、少しフランクになって表情が豊かになったというところだろうか。もっとも、俺が廊下で寝ることについてはいまだに不服そうなのだが、社会人と男子の面子ということで押し切っている。


 俺は、女子高生とこっそり同居しているという後ろめたさは依然としてあるものの、あまり意識しすぎないようにすることにした。エアコンの修理について出来ることはやったのだから、あとは適切なタイミングで彼女が両親に相談するのがベストだろう。余計なお節介で問題がこじれてしまう、という事態はしばしば発生してしまうものである。

 そんな風に自分の中で折り合いをつけ、俺は日々の生活を……正直に言うと、楽しんで過ごしていたのだった。




 エアコンが故障した隣室の女の子と同居している、と言っても生活の大半は仕事である。だから、平日の暮らしにはそれほど変化はない。

 今日もオフィスで仕事に励んでいた。


「遠山、ちょっとこっちへ来てくれ」

「はい。課長、何でしょうか」


 プリンターの前で印刷が終わるのを待っていると、遠藤課長に呼びかけられた。プリントアウトした用紙は脇において、若干緊張しながら課長席へと向かう。


「この間に提出してもらった、報告書だが……」

「何か不備がありましたか?」


 課長は、見覚えのある紙束をデスクの上にのせていた。俺が四苦八苦しながら作成したものである。ちらっと目を走らせると、赤い字で何やら書き込みがあったり付箋が貼られたりしているのがわかった。


「まず、赤のボールペンを入れたところを修正してくれ。それと……このグラフなんだが各項目の色分けをもう少しはっきりさせてくれると助かる。色合い的には綺麗だが芸術作品じゃないから、わかりやすさを優先だな」


 課長はしゃべりながら、パラパラと紙をめくっていく。


「この表は、もう少し詳しく欲しいな。おそらく、皆が知りたがるところだからな。表の元になったデータは?」

「報告書と同じファイルで、課長の端末に送ってあります」

「結構、あとでじっくりと見させてもらう。急がなくてもいから、今週末までにさっき言ったところを修正してくれ」

「わかりました」


 俺は、メモをとっていた手帳をしまって、課長から報告書を受け取った。一礼して、席に戻ろうと思ったのだが、課長は何かを考えるように俺を見ている。

 

「あの、まだ何か?」

「いや……全般的によく出来ている。その調子で頼む」

「は、はい。がんばります」


 素っ気ない口調で言った課長に頭を下げると、俺は内心の驚きを隠しつつ自分の席へと戻ることにした。課長は怒ることは滅多にないが、褒めることもあまりない。トラブルが発生しようとも、常に落ち着いて淡々と仕事をする人物なのである。その課長に、少しではあるが褒められたことで何ともいえない誇らしい気分になっていた。


「後輩よ、助けが必要かな?」


 仕切り板から、水村主任がにゅっと顔をのぞかせた。俺と課長とのやりとりを見ていたのだろう。


「いえ、前に出した報告書が良く出来ているって言われました。まあ、修正箇所は当然あるんですけど」

「ほう、やるじゃないか。なら、お節介な先輩の助けは不要かな」

「お節介なんて思ってませんよ。……あっ、ちょっと待ってくださいよ」


 課長から、詳しくして欲しいと言われた表のことを思い出す。何気なく請け負ったが、これは結構な難題では。


「ええと、頼りになる先輩に見ていただきたいものがあります」

「ほうほう、素直でよろしい」

「ここの表をもっと詳しくと言われたのですが……」


 俺が差し出した報告書を、水村主任は仕切り版から身を乗り出すようにして見た。


「これかあ、こいつは大変だなあ。複雑なやつをなんとか表にまとめた物だから、詳しくって言われても収拾がつかなくなるぜ。まっ、一緒に考えるとするか」

「こっちは急がないですから、まずは先輩の方でやることがあれば手伝いますよ」

「うむ、気配りもできるようになったようだな。うし、なら遠慮なく手伝ってもらうぞ」


 水村主任はそう言うと、小太りなお腹をポンと叩いた。




 仕事に集中していると、あっという間に時間が過ぎていった。気がつけば、就業時間終了まであと少しである。


「なんとか形になりそうだな」

「はい、先輩のおかげで助かりました」

  

 難しい仕事だと思っていたのだが、予想より早く終えることができそうだ。水村主任は、椅子に座ったまま軽く伸びをした。


「それにしても、遠山よ。なんか、仕事ぶりがキビキビしてきた感じがするな。良いことでもあったのか?」

「特にこれと言ってないですよ。まあ、そろそろ盆休みですから、もう一息気合を入れようってところです」


 俺は当たり障りのない事を言ったが、実は心当たりがあった。

 真由ちゃんはエアコン効いた部屋を使う代わりに、俺の晩ごはんを作ってくれる約束をしているのである。最初の頃は気づかなかったのだが、彼女はなるべく出来たてのご飯が食べられるように準備をしてくれていた。それを理解してからは、なるべく帰る時間を正確に知らせるようし、遅くならないように仕事を効率良く片付けることにしていたのだ。もしかすると、これが仕事に良い影響を与えていたのかもしれない。

   

「盆休みか、まとまった休みは久しぶりだな。よし、俺も後輩に負けないようにしなくっちゃな。早いとこ片付けようぜ」

「はい、本気をだした先輩についていきますよ」


 俺と水村主任は、気合を入れ直すと再び仕事に戻ったのだった。




 アパートのドアを開けると、エプロン姿の真由ちゃんが出迎えてくれた。彼女が振り向いた拍子に、後ろでまとめた髪がぴょこんと跳ねる。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 平凡な挨拶だが、笑顔で出迎えてくれる人が居るというのは実に良いものだ。真由ちゃんは、キッチンで何やら作業をしている途中だったようである。


「準備中だったかな?」

「今日は、とんかつにしようと思っていたんです。どうせなら、揚げたてがいいかなって待っていたんですよ。すぐにご飯にしますか、それとも少し休憩してからの方がいいでしょうか」

「おお、いいね。今日も暑かったけど、こういうときこそガツンとくるものも悪くない。うん、すぐに食べたいな」

「ふふ、じゃあ準備しますから、休みながら待って下さいね」


 俺は和室に移動して、さっさと着替えてしまうことにした。少しぐらいは手伝った方が良いだろう。

 隣からは、食器を並べる音と共に「ご飯ー、ごっはんー」という謎の歌が微かに聞こえてくる。真由ちゃんは、真面目で礼儀正しい子なのだが、意外とお茶目というか面白い部分があるのだ。だが、指摘すると止めてしまいそうなので黙っておくことにした。



 和室のちゃぶ台には、見事な色に揚がったとんかつが皿に乗っていた。他には、お味噌汁と夏野菜のサラダというスタンダードな組み合わせだが、それが良い。

 

「おお、見ているだけでお腹が空いてくる感じだよ。美味しそう」

「よかったです。良いお肉が売っていたんですけれど、暑いときに揚げ物はどうかなって思っていたんです」

「暑い中で食べるのは大変だけど、エアコンが効いているからね。しっかり食べれば夏バテ対策にもなるかな」


 俺は、粛々と部屋を冷却するエアコンを見上げ、心の中で感謝した。暑さで倒れていた真由ちゃんを助け、今の生活を始めるきっかけとなったのはこのエアコンのおかげなのである。


「うん、どうしたんですか?」

「このエアコン、よく働いているなって」

「ふふ、そうですね。お世話になってます」


 真由ちゃんは、エアコンに対して拝むような謎の仕草をした。せっかくなので、俺も彼女の真似をしておく。

 二人で顔を見合わせて笑い合うと、今日の夕食にとりかかったのだった。

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