第9話 休日のお仕事
大きなアクリル板で区切られたオフィスに入ると、奥で水村主任がどかっと座っていた。小太りな身体を椅子に沈め、プリントアウトされたコピー用紙に素早く目を走らせている。
「おはようございます。どんな感じですか?」
「ん? ずいぶんと早かったな。もっとゆっくり来ても良かったんだぞ。いや、そもそも休日に呼び出すなという話だよな」
「他らならぬ先輩の頼みですからね。頼りない後輩がいいところを見せるチャンスってところですよ。あっ、近くの喫茶店でカフェラテを買ってきたので、どうぞ」
「おっ、ずまんな。……あそこの喫茶店も、テイクアウトばかりになったなあ」
水村主任はカップに口をつけると、何やら思いにふけっているようだった。
しばらくして、近くにあったコピー用紙を引き寄せる。
「さて、本題なんだが、金曜日に俺がやったシステム改修ことは覚えているか?」
「はい、集計が楽になるように先輩がずっと作業していたものですよね。何度か試してみて問題はなかったはずですが」
「ああ、あのときはな」
水村主任は、椅子にもたれると目を細めて天井をにらんだ。
「ちょっと気になることがあって、さっき試してみればコレだ。ほら、こことこれの集計結果を見てくれ」
「あれ、ほんの少しだけどずれてますね。ごく僅かですけど」
「そう、何故かズレが出ることがあるんだ。めったに起こらない上に、数字としてはわずかなんだが……」
「原因がわからない以上は放置できない、ということですね」
俺が先回りして言うと、水村主任は重々しくうなずいた。彼は、カフェラテを一気に飲み干すとカップをパソコンの横に音を立てて置く。
「そういうことさ。今日、原因がわからなかったら、システムは元に戻そう」
「結構手間をかけたのに、残念ですね」
「仕方ないさ。だが、頼りになる後輩が原因を突き止めてくれれば俺の苦労が無駄にはならない。ここに、調べてほしいことをリストアップしておいたから、一つずつ潰していってくれ。怪しいとにらんでいるところは俺が調べるから、そっちに原因がある可能性は低いんだが」
「確実かつ手を抜かずに、ですね」
「うむ、こういうのは面倒でも確実に足場を固めていくのが、大事だからな」
水村主任がパソコンに向かうのを合図に、俺も作業を開始することにした。
一度仕事を始めてしまうと、思ったよりも集中することができた。休日出勤だけに、電話は鳴らないし不意の来客もない。リストを見ながら再計算を繰り返していうちに、少しずつ余裕が生まれてきた。
真由ちゃんは、どうしているだろうか。俺は、彼女が昨日のようにエアコンで涼んでいる姿を想像して微笑ましい気分になる。あるいは、真面目な子だから律儀に配達を待っているかもしれない。
「あっ、しまった」
「ん? どうした。何か予定があるのなら、無理はしなくていいぞ」
つい声を出してしまったところに、水村主任がディスプレイに視線を向けたまま話しかけてきた。
「大したことじゃないんです。……ええと、通販サイトのポイントの期限が迫ってるのを思い出してしまって」
俺は、とっさに適当な言い訳をした。本当は、来るはずのない配達を待っている真由ちゃんを想像して申し訳なくなったのだ。
「それなら、遠慮しないで注文しちまったらどうだ。もともとは休みなんだし、スマホを使ってても、見とがめる上司は居ないしな」
「では、ちょっとだけ失礼しますね」
「はは、休みなのに真面目だな。ふむ、俺も休憩を兼ねて何か注文させてもらおうかな」
水村主任はスマホを取り出すと、どこか上機嫌で指を滑らせはじめた。時刻を確認すると、意外に時間が経っている。普段もこのぐらい仕事に集中できれば良いのだが。
俺が注文を終えた頃には、水村主任はすでに作業に戻っていた。さすが先輩は仕事が速い。こちらも、負けないように仕事に専念することにした。
不意に職場の電話が鳴った。何かと顔を上げると、水村主任が素早く受話器を取ってなにやら話している。しばらくして、オフィスの扉が開いた。
入ってきたのはラーメン店の出前だった。
「あっ、主任がさっき注文するって言っていたのは、これのことですか」
「ああ、このご時世だと店に行くよりこっちの方が良いだろう。俺のおごりだから、遠慮なく食べてくれ。……休日に呼び出しておいて、おごりってのも変な話だがな」
「いえいえ、いいんですか。うわ、すごく豪華じゃないですか」
テーブルの上には、分厚いチャーシューがのったラーメンと焼餃子、それに中華風サラダ、デザートに杏仁豆腐までついている。実に美味しそうだ。一度はお店でこんな風に頼んでみたいと思ったことはあるが、これだけ頼むと結構な値段になるので試したことがない。
「おごってやる、と言ったら遠慮して安いのを選びそうだったから、俺が食いたいものを適当に注文させてもらったぜ。休日出勤だからな、せめて食事は楽しまないとな」
「いやあ、先輩さすがですねえ」
俺は、水村主任の気配りに感心した。確かに、おごってもらうとなれば安そうなメニューを選んでいただろう。俺も誰かにおごるときには、見習いたいものだ。もっとも、今のところそんな場面がなさそうなのだが。
「うし、一旦仕事は忘れて、熱いうちに食べようぜ」
俺は、有り難く豪華な昼食をいただくことにした。
出前はかなりのボリュームだった。だが、水村主任はそれをぺろりをたいらげ、デザートの杏仁豆腐を美味しそうに食べている。炭水化物を大量に摂取してしまったが、大丈夫なのだろうか。俺は、彼の小太りなお腹を見て思った。
「うん、どうした? もしかして、食べたりないのか」
「いえいえ、もうお腹一杯ですよ。たっぷりいただきました。……主任の手元にあるコピー用紙がちょっと気になったんです」
俺は、慌てて視線を水村主任のお腹からそらし、ごまかすためにコピー用紙の束を手に取った。並んだ数字を適当に眺めるフリをしたのだが。
「あれ? この数字、どこかで見たような」
「気のせいじゃないのか」
「ええと、これです」
立ち上がって、自分のデスクの紙束をかきわけると目的のものが見つかった。
「ほら、ここと同じ数字が並んでいますよ。だからって、何かわかったわけじゃありませんけど」
「確かに同じだな。偶然の一致か……いや、もしかすると」
水村主任は、杏仁豆腐を飲み込むように食べきると、勢いよく立ち上がった。
「すまん。食べ終わったら、食器をまとめて外に出しておいてくれ」
彼はスタスタとパソコンに向かうと、何やらうなりながらキーボードを叩き始めた。こうなると、そっとしておいた方が良いだろう。俺も、素早くデザートをたいらげて仕事を再開することにした。
しばらくすると、水村主任が不意に立ち上がった。そのまま、ぐるぐるとオフィスを歩き回る。
「わかったぞ。ここは昔のシステムを改良しながら使っているから、それが悪さをしてたんだ。過去に不具合が出て、応急処置のつもりで修正したものがずっと使われていた。それが、今になって影響してたんだ」
「つまり、そこが直ればってことですよね。できますかね?」
「問題ないさ。昔とは環境が違っているし、対処法もわかっているから、そう難しくはない。……よし、俺が修正する。遠山は、それが正常に動作しているか確かめてみてくれ」
俺は水村主任に遅れないように、急いでキーボードを叩き始めた。正常に動くかどうか検証するだけでも、かなりの手間がかかる。しかし、問題解決に目処がたったことで、一気にやる気がでてきた。こういうときは、仕事が面白いと感じる。
作業が落ち着いた頃には、すでに夕方になっていた。
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